背中を覚えている。
頑丈とはほど遠いのに、力強い背中だった。
音楽が湧き出る魔法のような指先へとつながり、音楽を呼吸している背中。ピットに入った時は誰も気にしていなかったのに、音楽が始まるやいなや吸い寄せられ、目が離せなくなってしまった背中。
2011年5月。チョン・ミョンフンのウィーン国立歌劇場デビューとなった《シモン・ボッカネグラ》。キャストにむらがあったにもかかわらず公演が成功といえるレベルだったのは、ひとえにマエストロの力だったと思う。終演後の拍手も、マエストロに向けられたものが一番多かった。
世界のオペラ界におけるチョン・ミョンフンの活躍ぶりはすさまじい。バスチーユの新劇場が開場した1989年から94年までパリ・オペラ座の音楽監督をつとめたのは周知の通りだが、政治的な思惑も入り混じるパリ・オペラ座の音楽監督をつとめることがいかに難しいかは、彼のあと現在の音楽監督であるフィリップ・ジョルダン(2009年より現職)まで安定した地位を築いた音楽監督が現れなかったことからもよくわかる。ウィーン国立歌劇場にもデビュー以来定期的に招かれているし、スカラ座やフェニーチェ歌劇場といったイタリアの名門歌劇場でも常連だ。2013年のフェニーチェ歌劇場来日公演《オテロ》を指揮したことは記憶に新しいが、今年は現地でニューイヤーコンサートを任された。またスカラ座に定期的に登場してイタリア・オペラを振る東洋人のマエストロは、目下のところチョン・ミョンフンだけである。
《フィデリオ》はある意味、オペラらしくないオペラである。物語の展開は約束されており、愛と正義の勝利が歌い上げられるフィナーレは、オペラというよりオラトリオ風。大合唱のカタルシスは、マエストロもインタビューで述べている通り『第9』に通じる。交響曲作家として空前絶後だったベートーヴェンが遺した唯一のオペラである本作は、オペラとシンフォニーに精通したマエストロにこそ委ねられるべきである。東京フィルとベートーヴェンの交響曲を繰り返し演奏し、そのたびに評価を高めてきたチョン・ミョンフンのシーズン幕開けのプロジェクトに、これほどふさわしい演目があるだろうか。しかも歌手は、つい最近もウィーン国立歌劇場で《フィデリオ》の主役を歌って絶賛されたペーター・ザイフェルトをはじめ、日欧の選りすぐりのメンバーなのだ。
軽井沢の大賀ホールでは、『運命』に加えて《フィデリオ》のアリアと、『レオノーレ序曲第3番』『コリオラン』序曲が聴ける贅沢なプログラムが用意されている。
世界の第一線のアーティストが東京フィルと奏でる、力強く、人間味に満ちたベートーヴェン。緑が萌え、生命が活気づく5月に、これほど耳を傾けたい音楽はない。
(文=加藤浩子)
加藤浩子(かとう・ひろこ)
東京生まれ。慶応義塾大学大学院修了(音楽学専攻)。慶応義塾大学講師、音楽評論家。著書に「今夜はオペラ!」「オペラ 愛の名曲20+4選」(春秋社)、「黄金の翼=ジュゼッペ・ヴェルディ」「バッハヘの旅」(以上東京書籍)「さわりで覚えるオペラの名曲20選」「人生の午後に生きがいを奏でる家」(中経出版)「ヴェルディ」(平凡社新書)ほか著書、共著多数。最新刊は『オペラでわかるヨーロッパ史』(平凡社新書)。ヨーロッパへのオペラ、音楽ツアーの企画同行も行っている。
〈公式HP〉http://www.casa-hiroko.com/
【公演情報】
チョン・ミョンフン指揮
5月定期 ベートーヴェン《フィデリオ》(演奏会形式)
●第906回オーチャード定期演奏会
2018.5/6(日)15:00 Bunkamuraオーチャードホール
●第907回サントリー定期シリーズ
2018.5/8(火)19:00 サントリーホール
●第117回東京オペラシティ定期シリーズ
2018.5/10(木)19:00 東京オペラシティ コンサートホール
指揮:チョン・ミョンフン(東京フィル名誉音楽監督)
ベートーヴェン/歌劇《フィデリオ》
(ドイツ語上演・字幕付・全2幕・演奏会形式)
フロレスタン (テノール):ペーター・ザイフェルト
レオノーレ (ソプラノ):マヌエラ・ウール
ドン・フェルナンド(バリトン):小森輝彦
ドン・ピツァロ (バス):ルカ・ピサローニ
ロッコ(バス):フランツ=ヨーゼフ・ゼーリヒ
マルツェリーネ(ソプラノ):シルヴィア・シュヴァルツ
ヤッキーノ(テノール):大槻孝志
合唱:東京オペラシンガーズ 他
◇定期会員券で購入すると1公演あたりのチケット料金が 約37% お得に。
詳しくは2018-19シーズン定期演奏会ラインナップページへ