①Bar EST!
ある熟練の飲み手は父や祖父のように慕い、ある若手の飲食関係者は神のように崇める。そう言えば、先日久しぶりに会った銀座の有名バーテンダーは、「校長先生のような存在」と語っていた。先頃40周年を迎えた湯島の老舗バー「EST!」のオーナー・渡辺昭男さんの満面の笑顔に触れると、それらの人物評がいずれも的を射ていることがよくわかる。
旧満州で生まれ、佐賀の唐津で育った渡辺さんは、高校卒業後、薬剤師を目指して上京したが、当時全盛だった「トリスバー」でのアルバイトをきっかけにこの道へ。銀座「静」、湯島「琥珀」といった名店を経て、1973年にこの地で独立した。店名はラテン語で「ここだ!」という意味。醸造研究の世界的権威で、「酒の博士」として知られた坂口謹一郎さんに依頼して命名してもらったそうだ。
プライヴェートではほとんど酒を口にせず、バーテンダー協会にも属していない彼は、「お酒もサービスも、すべてお客様に教えていただきました」と、これまでの歩みを振り返る。「仕事を始めた頃は、酒だけでなく、氷やフレッシュなフルーツも手に入りにくくて。カクテルのレシピもわからないことが多いから我流で考え、お客様の反応を見ながら調整を重ねてきました。その意味で、バーテンダーにとって最も大切なのはお客様の舌と心を探る“接客”だと思います。同じ人間でも、気候や健康状態で嗜好は毎日のように変わりますから、その探求には終わりはない。本当に難しいですが、だからこそ面白くもある」
「EST!」のカウンター9席&テーブル4席は、老若男女で連日満席。入口近くのカウンターには懐かしい黒電話が置かれ、独特の呼出し音と「はい、『EST!』でございます」という明るい声がよく映える。そして、茶褐色の質実剛健な内装と、白いバーコートをまとった渡辺さんたちスタッフが織りなす、美しいコントラスト。多くの芸能人や文化人をも魅了してやまない、温かく凛とした空気がそこにはいつもある。
「EST!」のカクテルは“旬”を大切にするため、提供期間が限られているものも少なくない。例えば、自宅で栽培したミントをたっぷり使った「モヒート」、晩秋から登場するザクロとカルヴァドスを合わせた「ジャック・ローズ」、そしてオリジナル・ブレンド珈琲で作る冬の定番「アイリッシュ・コーヒー」など。いずれも人気が高く、手本にする同業者も多い。
最後にバー入門にふさわしいカクテルを尋ねたところ、渡辺さんが熟考の末に選んだのが、ジンに甘味と酸味を加えてシェイクし、ソーダで割った「ジン・フィズ」と、ブランデー・ベースの「サイドカー」。どちらもバーテンダーの裁量が一口でわかるとまで言われるスタンダードだ。そしてもう1杯、「これからの季節に」と薦めてくれたのが、「スプリング・フィーリング」。ジン、シャルトリューズ・ヴェール(薬草系リキュール)、レモンジューズをシェイクしたもので、ハーブの香り豊かな味わいは、なるほど春にふさわしい。
「EST!」の至高のカクテルは、今年も爽やかに春の到来を告げる。
■Bar EST!(ばー えすと)
文京区湯島3-45-3
Tel:03-3831-0403
営業時間:月〜土・祝日 18:00〜24:00
休業日:日曜、盆、年末年始
②Bar 井上
2014年9月、「Bar EST!」の渡辺昭男さんも修行した老舗「琥珀」の隣に新たなバーがオープンした。扉の横には、オーナーの名字「井上」をお洒落にデザイン化した看板。その向こうには地下への階段がやはりお洒落に伸びていて、吹き抜けにはこれまたお洒落なステンドグラスがあしらわれている。これらの内装だけで、まだ見ぬ“彼”は相当やり手に違いないと確信してしまう。それが、「Bar 井上」だ。
オーナーの井上雄介さんは、上野界隈で20年近く勤務。「独立するなら、人も街も味のあるこの街と心に決めていました。それで、たまたま出てきた物件が琥珀さんの隣だったんです」と笑う。店名には、ある真摯な思いが込められているそうだ。
「僕は岐阜出身で長男なのですが、東京で好きなことをやらせてもらっている。それを許してくれた両親や親戚への感謝と報告を兼ねて、自分の名字を冠しました」
カウンター7席&テーブル4席の小さな空間は、親密だが窮屈さをまったく感じさせない巧みな設計。バックバーには、1990年代頃に流通していた懐かしの蒸留酒が数多く並ぶ。
「僕がバーで最初に働いた22歳頃は、お酒がほとんど飲めなかったんです。でも、バーテンダーとお客様が作り出す素敵な空気感に触れる中で、“自分がやりたいのはこれだ”と思って。以来、いつか自分の店を出す時に、当時出していたボトルを懐かしんで欲しくて、少しずつ買い貯めてきました」
これらのボトルは、現在ほとんど終売。オークションなどで高額で取引されているが、井上さんは購入時の価格に設定しているので、驚くほどリーゾナブルに楽しめる。また、現行の面白いボトルの調達にも積極的で、今一押しなのが、インド産シングルモルト「アムルット」と、スコッチシングルモルト「スプリングバンク」のグリーン。前者はモルトマニアックスアワードの最高賞を獲得。後者はオーガニックの大麦を使用した限定品で、どちらも飲みやすく味わい深い。
特定の師匠を持たない井上さんだが、カクテルを作る姿も実にシャープだ。一番のお気に入りは「サイドカー」で、ブランデーをベースに、ホワイトキュラソーの華やかなオレンジの香りと、フレッシュなレモンの酸味を絶妙に合わせている。
そして今回、「東京・春・音楽祭」用にオリジナル・カクテルをお願いしたところ、二つ返事で快諾。ラム、梅酒、ネクターピーチ、チェリーブランデーを甘くすっきり仕上げた、その名も「春の訪れ」だ。2〜3月は「湯島天神梅まつり」が行われることもあり、井上の定番カクテルとして今後も長く愛される1杯になりそうだ。
■Bar 井上(ばー いのうえ)
文京区湯島3-44-1 高橋ビルB1F
TEL 03-5826-4637
営業時間
月〜土19:00〜5:00
日・祝日19:00〜24:00
休業日:不定休
*東京春祭オリジナルカクテル「春の訪れ」(有料)
③Bar Jimador
「Jimador」と書いて「ヒマドール」と読む。これはメキシコで最も古い蒸溜所の一つ、エドゥーラ社が生産するテキーラ「エル ヒマドール」の名前でもある。同国で最大の販売量を誇るテキーラで、オーク樽で2ヶ月熟成した「レポサド」は、原料のアガヴェ(竜舌蘭)の甘さを活かした滑らかな味わいが特長だ。
「“ヒマドール”は“アガヴェの葉を刈る職業”という意味。テキーラのそもそもの生産者である彼らに敬意を表し、店名に選びました」と語るのは、オーナーの佐藤誠さん。アジア最大級のテキーラ・コレクション・バーとして名高い六本木の「AGAVE」や、銀座の老舗ラム・バー「Lamp」で修行した彼がこの地でテキーラ&ラム中心のバーを開いたのは、奇しくも前述の「Bar 井上」と近い2014年10月。店舗も井上の隣のビルの2階にあり、この細い路地は一躍、湯島のバーのホットスポットになった。
赤い壁が印象的なカウンター8席&テーブル4席には、メキシコから取り寄せた椅子や置物が置かれ、BGMに流れているのもシックなメキシコ音楽。まるで現地の秘密の隠れ家のようだ。バックバーに並ぶボトルは、現在約210本(テキーラとラムの比率は約3対1)。ボトルの高さやデザインが実に多様で面白い。
テキーラのチェイサーは、オリジナルの「サングリータ(スパイシーなトマトジュース)」を提供。現地の伝統的なテキーラの飲み方で、舌の麻痺や酔いを巧みに抑えてくれる。
佐藤さんはこうした蒸留酒だけでなく、フードやカクテルにも全力投球。メニューには、「タコス・デ・トリッパ」「トルティーヤ・ドッグ」「サボテンのサラダ」など、本格的なメキシコ料理が多数並ぶ。
春めいて喉が渇くこれからの季節には、テキーラを使ったカクテルもぜひ。テキーラをグレープフルーツとソーダで割った「パローマ」や、サボテン型の大振りなグラスで供される「フローズン・マルガリータ」などは、実に喉越しのいい1杯だ。
そして佐藤さんは、前述の井上さんと同様に、「東京・春・音楽祭」のためにオリジナル・カクテルも考案してくれた。同量のテキーラとサングリータをシェイクしたこちらの1杯は、「暖かい春」を意味する「プリマヴェーラ・カリエンテ」。「“カリエンテ”には“熱い”という意味もあるので、“辛い”味わいにも掛けてみました」ということなので、その研ぎ澄まされた“熱さ”を五感で堪能して欲しい。
Bar Jimador(バー ヒマドール)
文京区湯島3-44-1 高橋ビル 2F
03-5818-0037
営業時間:19〜5時
休業日:日曜日
※「東京・春・音楽祭」期間中は、こちらの記事を読んだと佐藤さんに伝えると、テーブルチャージ500円を無料サービス
(取材・文:渡辺謙太郎 写真:中村風詩人)