eぶらあぼ 2024.3月号
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25取材・文:高坂はる香い個性が異なるので、まとめて演奏します。ただそれ以外について、若い番号から順にまとめて演奏する考えは全くありません。op.49やop.54に小さなソナタが挟まれていることからもわかるように、一つひとつ積み上げながら継続性を持って書き進められた作品群ではないからです。初期、後期ともそれぞれの難しさがあります。そこで、各回でさまざまな時代のベートーヴェンの背景を感じていただけるように、作品を組み合わせました」 ブッフビンダーとベートーヴェンの最初の思い出は、幼少期に遡る。 「子どもの頃住んでいたのは小さな部屋で、アップライトピアノの上にラジオが置かれ、後ろの壁にベートーヴェンのマスクが掛けてありました。ピアノの前に座ると、ずっとベートーヴェンに見下ろされている環境で育ったわけです。そして5歳でウィーン音楽院の最年少の学生となり、ベートーヴェンの作品に取り組むようになりました。私は常にベートーヴェンに見られて生きているのです」 ベートーヴェンが彼をこれほど惹きつける理由はなんだろうか。 「作曲家としてだけでなく、人間として私を魅了します。彼は特別なヒューマニストでした。多くの女性と恋愛しましたが、生涯独身で、常に人の温かさを求め、愛を渇望していました。私はありがたいことに結婚してすでに58年が経ち、愛やぬくもりはずいぶん前に見つけたので、そこはベートーヴェンと大きく違うところです(笑)」 1946年生まれの77歳。若者でも大変な企画に思えるが、おそらく歳を重ねて愛と自由を手に入れた今だからこそ、むしろ若い頃より自然かつ楽な気持ちで取り組めるのだろう。エネルギッシュな巨匠のチクルスに期待しよう。Profileベートーヴェン作品における演奏のスタンダードを作ったと見なされている、現代における伝説的な演奏家の一人。60年以上にわたるキャリアを持ち、そのピアノ演奏はエスプリと自由闊達さとに独自に結び合わされており、伝統と革新、忠誠と自由、信頼と虚心坦懐が、偉大なピアノの文脈を解釈することのなかにすべて溶け込んでいる。ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団、ウィーン楽友協会、ウィーン・コンツェルトハウス協会、ウィーン交響楽団、イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団名誉会員。歳を重ね、より自由になった今だからこそのベートーヴェン演奏を 1ヵ月の開催期間を生かし、例年優れたシリーズを企画してくれる、東京・春・音楽祭。今年はオーストリアの名手、ルドルフ・ブッフビンダーによるベートーヴェンのピアノ・ソナタ全曲演奏会(全7回)という、聴き逃せないチクルスがある。 「私が初めてピアノ・ソナタ全曲演奏をしたのは1979年。以後、世界各地で60回以上チクルスを行ってきました。3回全曲録音もしています」 たびたびチクルスを行うようになったのは、著名な音楽評論家の故ヨアヒム・カイザーからかけられた言葉が一つのきっかけだという。 「最初の全曲録音からしばらく経った頃、カイザー氏から“ルディ、君はもう一度ピアノ・ソナタ全集を録音しないといけないよ”と言われました。あんなに大変なことをまたやれだなんて! と思いましたが、その理由として彼は、“君は今、前よりも自由になったから”とおっしゃったのです。 確かに若いうちは、視野が狭く柔軟性が欠けてしまいがちです。例えばベートーヴェンのメトロノームの指示によるテンポはとても速いですが、チェルニーによると、実際のところそれは最初の数小節についてで、後は自由に演奏して良いといいます。ただ若い演奏家にとって、それを自ら判断して自由に弾くのは、勇気がいる怖いことでもあります。でも歳を重ねると、いろいろな自由を受け入れられるようになるのです」 自ら完璧主義であると話し、ベートーヴェンのピアノ・ソナタについては手稿譜や複数の版を研究し尽くして演奏に臨む。 「手稿譜は残念ながら32曲中の一部しか残っていませんが、ベートーヴェンがチェックした初版の楽譜も含め、これらを研究することは非常に重要です。細かく見ていくと小さな違いやミスが発見されて、まるでミステリーを解くような感覚になります。その研究の末、今、私の中で達した一つの結論に基づいて演奏しているわけですが、これから先また違ったことを思うようになるかもしれません。そうして演奏は常に変わっていきます」 今度のチクルスでは、後期三大ソナタ(30~32番)をまとめた最終日を除き、さまざまな時代のピアノ・ソナタを合わせる形でプログラムが組まれている。 「最後の3つのピアノ・ソナタは比べようのないくら

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