eぶらあぼ 2024.1月号
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 12月2日、マリア・カラスが生誕100年を迎えた。彼女の人気は、実際の活動時期からすでに50年近く経っているにも関わらず、いっこうに衰える気配がない。それに貢献しているのが、EMI(現ワーナー)への膨大なレコーディングだろう。この号では、筆者にとっての「カラスのベスト録音3点」を挙げてみたい。 彼女の名盤といえば、多くの人にとってはデ・サバタ指揮の《トスカ》やセラフィン指揮の《リゴレット》だろう。しかし筆者は、作品にこれらの録音で親しんだわけではなかったせいか、それほど強い愛着は持っていない。前者など非の打ちどころがない名演で、本当に素晴らしいと思うが、筆者にとっての《トスカ》のスタンダードは、カラヤンの新盤なのである。《ノルマ》に関しては、スタジオよりもライブに優れた録音があると思っている。一回目のモノラル盤は総じてやや粗削りで、二回目のステレオ版は声の衰えが激しくてかなり痛々しい(表現は成熟していてずっと泣けるが)。 筆者自身の愛聴盤は、何と言っても《ランメルモールのルチア》のモノラル盤である(1953年)。これは当時29歳のカラスの若々しい声が聴けるだけでなく、表現がすでに練りきられていて、感嘆させられる。彼女は、最初期から完成されていたのだ! 特に素晴らしいのは、第2幕第1場で兄エンリーコとやり合う場面。ルチアは、エドガルドの裏切りの手紙(偽物)を見せられて嘆くが、カラスは長いブレスに悲しみを捩じり込むように歌っている。その儚げな風情が実に美しく、ドラマティックである。同録音では、相手役のディ・ステファノが(特に幕切れのソロで)一世一代の歌唱を聴かせているのも魅力だ。 二枚目は、ドニゼッティ、トマ、ベッリーニの「狂乱の場」を収めたアリア集(1958年)。このアルバムは、前年にスカラ座で大成功を収めた《アンナ・ボレーナ》のフィナーレを収めるために企画されたものと思われる(カラスは全曲盤を望んだだろうが、EMIはこのオペラで採算が取れると思えなかったのだろう)。歌唱は、カラスの技術と表現力の集大成と呼ぶべきもので、ドラマティックなコロラトゥーラから息の長いレガートまでまさに完璧である。興味深いのは、同時期(翌週)に録音されたヴェルディ・アリア集に、声の衰えが感じられること。1958年は、好不調に波が出てきた時期とされるが、両録音には、それがはっきりと表れている。 三枚目は、ヴォットー指揮の《ジョコンダ》ステレオ盤(1959年)である。当盤は、カラスがオナシスのもとに走る決意をした時期(いわゆる「地中海クルーズ」の直後)のものである。そのせいか、主人公の千々に乱れる想いが強烈な表現で歌い込まれているように感じられる。 筆者のお気に入りは、第3幕第5場。ここでジョコンダは、エンツォへの恋心を犠牲にして恋敵ラウラを救うことを決心する。そして「愛する彼のために彼女を救おう」と歌うが、カラスはそれを「彼のために、愛のために彼女を救おう」と変えている。これが表現のための変更かはわからないが、「愛のために」という低音のフレーズが、自分の恋を諦める主人公の苦い想いを表現していて、胸にグサリと刺さるのである。たった2分にも満たない短いソロで、ドラマの核心を突いてしまうところが、まさにカラス。ほかにも捨てがたい録音は山ほどあるが、筆者にとってのベストはまずはこの3枚である。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。117 No.90連載城所孝吉カラス生誕100年~お気に入りの録音は?

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