eぶらあぼ 2023.7月号
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 作家・翻訳家の関口涼子さんとチャットしていて出た話題なのだが、デジタル・ディストリビューションが主流となる今後において、本や音楽はどうやって読まれ、聴かれていくのだろうか。つまり、書店の店員さんのおすすめや『レコード芸術』のような専門誌がなくなり、電子書籍や音楽ストリーミングで本や音楽を受容するようになった時、我々の読み方・聴き方はどう変わるのだろう。何が言いたいのかというと、そうした状況で本や音楽をきちんと選別し、自分の好みのものを見つけていけるのだろうか、ということである。 好みとは、トレンドとともに形成される。例えば日本では今、イザベル・ファウストやフランソワ=グザヴィエ・ロトが気鋭の演奏家だとされている。それは音楽雑誌やメディアが、彼らがなぜいいのか、ということを繰り返し記してきたからである。たとえ専門誌での議論を知らなくても、彼らの特色や美点は、コンサートの紹介文などで再生産されるため、音楽ファンの間で着実に根付いてゆく。「マーラーの交響曲を時代楽器で演奏するため、これまでになかった新鮮な響きが聞こえる」といったように、彼らの何をどう聴くべきなのか、という基準が形成されるのである。 しかしストリーミングサービスでは、プレイリストやおすすめが勝手に表示される。それは確かに「何を聴くべきか」の一助であり、すぐに聴けるので、とても便利なシステムである。しかし、そこでは演奏をどう聴くべきで、何が特色なのかについての説明はない。もちろん、情報を持っている人ならば自分で判断できるが、ない場合にはよりどころがないだろう。プレイボタンを押して聴き、「消費」して、それだけで終わってしまう。それでも、評価を形成する音楽メディアが存在するうちは、基準自体は作られ、何らかのかたちで伝わってくるので、まだいい。問題は、それがなくなった時である。 例えば韓国では、音楽について語る雑誌は壊滅状態で、情報はもっぱらSNSで伝達されるという。ドイツではさすがにそこまでいってはいないが、演奏についての議論が行われる場所は、年々減ってきている。筆者が危惧するのは、ストリーミングによる簡易なディストリビューションが進化するなかで、評価基準を作るメディアが消え、我々の趣味趣向が磨かれなくなることである。 前号でも書いた通り、演奏の特色が言語化されなくなった時、演奏を聴き分ける能力は、確実に下がってゆく。 興味深いのは、日本人は他人が作ったプレイリストが嫌いだ、ということである。つまり、自分が好きなものを聴きたいのであって、お仕着せの選曲には関心がない。これは、聴き手にこだわりがあることの証拠であり、良い傾向だと思う。その一方で、ラジオの音楽番組は依然として人気がある。その理由は、特定の案内人が好きで、その人がすすめるものなら信用する、ということらしい。とすると、『レコ芸』に代わるメディア(オンライン)が出てきた時に、ストリーミングとの接点は、批評家がキュレーションしたプレイリストを作り、パーソナルな視点から解説することであるように思われる。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。119 No.84連載城所孝吉ポスト・レコ芸(その2):配信時代では、何をたよりに音楽を聴くべきなのか?

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