23取材・文:森岡実穂 写真:吉田タカユキ 10年前、日生劇場開場50周年記念公演としてライマン《リア》を演出した栗山民也が、60周年の機会に再びオペラを演出する。今回はギリシア悲劇を原作とするケルビーニ《メデア》(日本初演)だ。 「オペラを演出するときまず考えるのは、その『音楽』との出会いの衝撃を皮膚感覚で訴える手だてです。《リア》初聴きの時には、『嵐の場面』の音楽がまさに僕が考えていたリアのイメージに近かった。この衝撃をどう伝えるか。今回《メデア》でも、メデアの歌を通して、人間の『業』というか、理性では解決できない何かが彼女を動かしていく所にオペラならではの魅力を感じました」 本作でメデアの置かれた立場は厳しい。不実な夫ジャゾーネは公的には「英雄」としてもてはやされ、コリントスの王クレオンテは男性社会のトップで圧倒的な権力の象徴。メデアは未開の地コルキスからコリントスまで連れて来られた異邦人、そして女性として二重に弱い立場にある。この権力者たちにより追い詰められたメデアは、最終的に自分の子を殺してしまう。それはなぜか。 「人間の幸福とは、社会や人など、『何かと繋がっている』感覚にあるんだと思うんです。不幸・絶望とはそうした繋がりを断ち切られていくこと。これは現代でも同じですよね。家族や社会からどんどん繋がりを断ち切られて、さらに性差別も重なる中、最終的に孤立した彼女の魂は、繋がれたものへの執着が強ければ強いほど、意識的にそれを断ち切っていくことになる。僕はそれが『子殺し』だと思うんです。彼女はジャゾーネの全てを壊すために、彼を生かしたまま、愛する者たちとの『繋がり』を断ち切っていくことを選ぶ。人間ってここまでのものであり得るんだって、こんな究極の悲劇を紀元前5世紀にエウリピデスは書いたんです」 メデアの行動は普通に考えれば「不可解」なものだ。だが今の日本のテレビ番組や芝居で、わかりやすい存在ばかりが良しとされ、矛盾に向き合うことや異論を衝突させることが避けられがちなことに栗山は異議を唱え、だからこそ《メデア》のような作品を観てもらうことが必要だと語る。 「人間ってそもそももっと不可解なもので、だからこそ魅力的なわけです。チェーホフの芝居でよく見るように、人間には口で『大嫌い』と言っていても実は『大好き』ということもある。 メデアは最後に子殺しに至るまで、自分の精神の内のさまざまな感情とぶつかりあう。僕はこの『ぶつかる』ってことが演劇だと思うんです。そこに何かが生まれる。『これが正しい』と言いながら30秒後にはまた違うと思う、それが人間なのであり、そこで生まれたその瞬間の声、表情を見せたい。『ぶつかる』ことを皆が避ける時代に、こういう作品に取り組もうという日生劇場はさすがです」 普段の芝居の稽古でも栗山は「稽古とはその人物がどんな声の持ち主なのかを探す旅だ」と言っているのだそうで、今回はオペラだから「自分が今まで出したことのない『その人の声』に出会う」ことが、そもそも楽譜によって求められているのではないかと語る。オーディションでもたくさんの声を聴いて、メデア役には「変化の中でメデアの存在そのものがぎりぎりに繋がれたものから引き裂かれていく瞬間を体現できる、スケールの大きな二人」として岡田昌子と中村真紀を選んだと言う。彼女たちは稽古の中でどんな声を見つけ聞かせてくれるだろうか。 ウクライナでは戦争が続いていて、日本でも非人間的な事件が毎日報道されている。栗山はこういう時代だからこそ「劇場」には大事な役割があるという意識を多くの観客と共有したいと訴える。 「旧東独を生きた演劇人から、以前こんな言葉を聞きました。『そんな時代でも夜になったら私たちは劇場に向かった。劇場には真実があったから』。欧州では劇場とは歴史の中で真実を守り、社会を監視する場です。観客が作品を『観る場所』であると同時に、人や社会について『考えて成長する場所』なんです」 我々もそういう意識で劇場へ向かいたい。Profile東京都出身。早稲田大学文学部卒業。2000年から2007年まで新国立劇場演劇部門芸術監督、また2005年から15年まで新国立劇場演劇研修所長を務める。紀伊國屋演劇賞、読売演劇大賞の大賞及び最優秀演出家賞、芸術選奨文部科学大臣賞、毎日芸術賞千田是也賞、朝日舞台芸術賞、朝日舞台芸術賞グランプリ、菊田一夫演劇賞、紫綬褒章など受賞多数。著書に『演出家の仕事』(岩波書店)がある。「ぶつかる」ことで生まれるその瞬間の声、表情を見せたい
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