eぶらあぼ 2023.4月号
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それでも踊るそれでも踊る者たちのために者たちのために第102回 「振付家が、評論家の顔に、犬の糞を。」 にわかには信じがたいニュースが世界のダンス界を駆け巡った。ハノーファー州立歌劇場の舞踊芸術監督マルコ・ゲッケが、著名な舞踊評論家ヴィープケ・ヒュスター(57)の顔に犬の糞を塗りつけた、というのだ。ヒュスターはハーグのNDT(ネザーランド・ダンス・シアター)で行われたゲッケの新作『オランダの山々』を酷評していた。 しかし犬の? 糞を? 顔に? 複数の報道をまとめると2月11日、ゲッケ作品を含むトリプルビル上演中のハノーファー州立歌劇場で事件は起こった。休憩中のロビーでゲッケはヒュスターに対し(以前に面識はなかったという)、彼女が約20年間も執拗に酷評を書き続けたこと、そのため前売りのキャンセルが多数出たことに抗議し、彼の公演への出入り禁止を告げた。そしてポケットから袋を取り出し、中にあった愛犬グーキー(ダックスフント)の糞を彼女の右頬に塗りつけたのである。愛犬は常にゲッケと一緒で、糞はたまたま所持していたもの。ホカホカだったかもしれない。周囲が凍りつく中、ゲッケはゆっくりとお辞儀をしたという。彼は芸術監督の任を解かれた。 これは「暴力事件」でありヒュスターは告訴。彼女は由緒あるFAZ紙に『オランダの山々』を「退屈」と酷評してはいたが、過去17年間でゲッケ作品について書いたのは9本にすぎず、うち2本は肯定的だとゲッケの主張に反論している。 オレはこの作品を映像で見た。一見変なタイトルである。オランダは低湿地帯なので、山らしい山はないのだ。存在しない山々、とは哲学的な響きだが、オランダの作家セース・ノーテボームの同名小説やニッツが歌う同名曲でも雲だと示唆され、ゲッケの舞台でも上空に雲のようなスモッグが漂い続ける。Profileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com134ニッツの曲はラストに流れて作品を締めくくる。動きも演出もゲッケらしさに溢れており、これが嫌いならゲッケのスタイル全般がとにかく気に食わないということだろう。 むろん言論に対する暴力的な攻撃は言論の自由を脅かすものであり、許されない。しかし少なくともゲッケの芸術家生命を奪うような事態にはなっていない。ハノーファー歌劇場も懲戒解雇ではなく「両者の合意による」辞職であり、退任後も彼の作品は上演し続けると明言した。様々な人が、評論家の酷評によるチケットのキャンセルが実際にあることや、「駄作を褒めたと思われたくないために必要以上に厳しく書く傾向がある」等々を、「あくまでも一般論として」語っている。 作品と評論は両輪だとオレは信じている。両者が憎悪で繋がれるのは双方にとって不幸なことだ。評論はファンレターではないので、ときにアーティストの意にそぐわぬことも書く。しかし「相手を傷つける可能性を覚悟の上で書く」ことと「相手など傷ついてもかまわないと思って書く」のではわけが違う。だがそこを踏み越えさせる魔力が言葉にはあることを、書き手は絶えず自戒する必要がある。 ちょうどいまオレは若い書き手のためのプロジェクトを進行中なだけに、考えさせられる事件だった。乗越たかお

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