eぶらあぼ 2023.3月号
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勇壮な音楽をどう表現するのか。聴き手の私たちも、周辺国に支配されたショパンの時代のポーランドと、今のウクライナの状況を重ねずにはいられないだろう。 そんな今の時勢を思いながら聴いたら間違いなく心を動かされそうなのが、ブラームスの間奏曲op.119-1とop.117-3。晩年のブラームスが、人生への諦観や愛への憧れを託して書いたかのような美しい小品だが、実はこれらは最近、本人の希望によるプログラム変更の末に入れられた。おそらくガヴリリュクの中で、この音楽を届けたいという強い意志があるのだろう。 一方、超絶技巧がトレードマークの彼らしいリストの作品も入っている。「タランテラ」では、ピアノの表現力を活かして動的なエネルギーにあふれる熱演に期待できそう。そして得意レパートリーのひとつであるリスト編のサン=サーンス「死の舞踏」では、一人何役にも変化する卓越した表現力で、不気味な死神の舞踏をまざまざと描写してくれるはずだ。 以前、東日本大震災から間もないころに話を聞いたとき、彼はこう語った。 「被災地の惨状を前に、音楽家としては涙を流すことしかできないが、そんな時でも音楽は人の心に愛をもたらすと思う」 今度は私たちがウクライナに想いを寄せる番といえる。 ガヴリリュクにとって、自らの音楽に最も刺激を与えるのは演奏中に起きる聴衆とのつながりであり、「いつもではないけれど、時々私たちが一つになる、まるで“ニルヴァーナ”のような瞬間が訪れる。人間は個々に異なるものでも、深いところで何かが共通しているということを、こうした瞬間が証明してくれると感じる」と話す。 彼がウクライナ人ピアニストであると知って聴きにくる聴衆が大半の会場の空気がどのようなものになるのか、それは当日にならなくてはわからない。しかしこの久々のリサイタルが特別な時間になることは、間違いないだろう。36文:高坂はる香アレクサンダー・ガヴリリュクピアノ・リサイタル音楽は人の心に愛をもたらす 1984年ウクライナ、ハルキウ生まれの、アレクサンダー・ガヴリリュク。超絶技巧とは見せる表現のためではなく、作品の深層に潜む感情を大胆かつ自在に伝えるために必要なのだということを示す、この世代トップの実力を持つピアニストだ。 ガヴリリュクは、16歳で浜松国際ピアノコンクールに優勝。その2年後に不運にも大きな交通事故に遭い、再起不能と言われるほどの重傷を負ったが、奇跡的に復帰。2005年にはルービンシュタイン国際ピアノコンクールで優勝し、世界的に活躍するピアニストの仲間入りを果たした。 その後も着実な演奏活動を続け、音楽を深めてきた彼は、今年30代最後の年を迎えた。5年ぶりとなる日本でのリサイタルで披露するのは、ロマン派を中心にピアノ音楽の幅広い魅力が示されるプログラムだ。 ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第14番「月光」は、16歳の時に初めて演奏したというので、以来、20年以上にわたって彼の中にあるレパートリー。「気持ちや解釈の変化といったプロセスは、果てしなく、終わりなく、ずっと続いていく」と話すガヴリリュクのことなので、今この時にこの作品を弾くことで、その一見ロマンティックな音楽の奥にある実像を浮かび上がらせるのではないだろうか。 シューマンの「子供の情景」は10年ほど前に録音をリリースしている作品。当時の音源では、併せて収録されていたムソルグスキー「展覧会の絵」から「子供の情景」に入ったときのキャラクター、音色の変貌ぶりに驚いたものだ。その巧みな表現力で、優しく慈愛にあふれる音楽を届けるだろう。 また、今彼が弾くショパンにも、特別な感興を抱かずにいられない。かつてガヴリリュクはショパンについて、「正しいスタイルで演奏した時には、力強さ、人間の尊厳や、魂が秘める影の部分が現れる」と話していた。 物思いに耽るような優しさを持つ夜想曲第8番を、彼はどのように歌わせるのか。また「軍隊ポロネーズ」では、痛みに耐えて立ち向かっていくような

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