121 CD評の仕事をしていると、時々モーツァルトのレクイエムの「別バージョン」が回ってくる。つまりジュスマイヤー版でない、あるいはそれを補足した版のこと。最近は、1960年代に発見された作曲家自身のアーメン・フーガの断片(16小節のスケッチ)を最後まで書いたものが付加されることが多い。 筆者はこの種の演奏を聴くと、少々鼻白む思いになる。というのは、研究者や作曲家、指揮者が補作を行いたくなる理由が、いまひとつ理解できないからである。レクイエムの最もオーセンティックな楽譜は、ジュスマイヤー版だ。彼はモーツァルトのアシスタントであり、コンスタンツェから直接完成を依頼された。本人からも指示を受けていたようで、最もモーツァルトに近い場所にいたのである。 もちろん、和声の禁則等の明らかなミスを修正することは、問題ない。しかしオーケストレーションをし直したり、補作部分を取り除き、新作を作ったりするのはいかがなものか。筆者はそこに、「ジュスマイヤーよりも自分の方が優れていて、モーツァルトに近いものが書ける」という驕りを感じてしまう。文献学的なバイヤー版、ランドン版はともかく、指揮者や作曲家が作った版には、その印象が拭えない。 そもそも、ジュスマイヤーを見下す理由はないだろう。なぜなら彼は、18世紀末に活躍した作曲家であり、同時代のスタイルを身につけていたからだ。我々は、当時の人間と同じように音楽を書くことはできない。後代のすべての音楽を体験しているために、その影響から逃れることができないのである。能力の優劣以前に、18世紀の作曲家と同じ位置に立つことが、原理的に不可能なのだ。 しかし問い直すべきなのは、ジュスマイヤーの仕事がそんなにお粗末だったか、ということではないか。筆者に言わせれば、彼は素晴らしい仕事をしたと思う。補作・新作とされるラクリモーサ以後の音楽と、それまでの音楽との間に、質的な断絶があるとは言えない。読者の多くも、「後半部分もモーツァルトが書いた」と感じているのではないか。これは、マーラーの交響曲第10番(クック補作完成版)が、マーラーの音楽に聴こえないこととは、明らかに違っている。レクイエムが今日までノーカットで上演されてきたのは、ジュスマイヤーの部分も、まぎれもなくモーツァルトの音楽と感じられるからなのだ。 ちなみにジュスマイヤーの他の作品は、モーツァルトのそれとまったく似ていない。ならば彼は、なぜレクイエムの時だけ、モーツァルト的で霊感に満ちた音楽を書くことができたのか。実は筆者は、こんなメルヘンを夢想している。モーツァルトは死んだ後、レクイエムの成り行きが心配になった。そこでジュスマイヤーに神通力を送って、自分の意図通りに書かせた。神様は「それはちょっとねぇ…」と思ったが、モーツァルトのすることなので大目に見た。こうしてレクイエムは完成し、コンスタンツェの懐も潤った。めでたし、めでたし。 「ジュスマイヤーの補作は、本人の息がかかっている」と考えれば、素直に楽しめるようになるかもしれない。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.80連載城所孝吉ジュスマイヤー版の「モツレク」はそんなにダメなのか?
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