27取材・文:香原斗志 一世を風靡した三大テノールのコンサートは、異例づくしだった。1990年7月、サッカーW杯の決勝戦前夜祭にローマで初めて開催されると、一晩で8億人が視聴し、CDが1600万枚売れ、4年後にアメリカで開催されると視聴者数は13億人に。 クラシック音楽界の記録をなにもかも塗り替えたが、世界ツアーは2003年を最後に途絶え、2007年にはルチアーノ・パヴァロッティが亡くなったので、もう二度と開催されない――。そう思っていたところに、夢のような知らせである。「パヴァロッティに捧げる」べく、残った2人、プラシド・ドミンゴとホセ・カレーラスが、一夜かぎりの競演をしてくれるのだ。 ドミンゴ自身、その機会が訪れるとは思っていなかったようで、オファーを受けたことに感激して、「予想していなかっただけに、すばらしいサプライズです! 久しぶりにホセとステージをともにでき、また、ルチアーノに敬意を表する機会になるのですから。その場が東京だというのもうれしいです」と、メール・インタビューに答える。ドミンゴがそう思うのも、「三大テノール」があまりにも特別で幸福なコンサートだったからだ。 「(1990年のローマのコンサートは)魔法のような夜で、アドレナリンがあふれ、かつて例のない試みであること、ベストを尽くすべきことを、3人がみな理解していました。そこには熱い聴衆がいて、私たち3人が一緒にいるという事実に熱狂し、テレビでは生放送されました。それにW杯の決勝戦前夜ですから、大のサッカーファンである私たちは大よろこびで歌い、指揮をしたズービン・メータが非日常の雰囲気を醸し出してくれました。3人が集まらなければ起きない化学反応が起き、それに聴衆が心を打たれたようで、だからこそ私たちはその後、3人のコンサートを世界中で行ったのです。その結果、それまでオペラを知らなかった多くの人が私たちのコンサートを訪れてくれて、その後、オペラ劇場に通うようになりました。なんとすばらしいことでしょう」 なにを隠そう筆者自身、「三大テノール」がなければ、これほど音楽に深入りしなかったと感じている。また、いまをときめく歌手の多くが、じつは「三大テノール」を聴いて歌手を志した、という事実がある。 今回は、どんな選曲を考えているのだろうか。 「コンサートのプログラムは、すでに考えはじめていますが、みなさんへのサプライズも交えたいと思っています」 ところで、ドミンゴが日本で初めて歌ったのは1976年にさかのぼる。 「《カヴァレリア・ルスティカーナ》と《道化師》で東京にデビューしてから、もう45年以上になります。日本文化に、そして、すばらしい文化的伝統と最新のテクノロジーが融合している姿に感銘を受けたのを、いまでも覚えています。その後、私はミラノ・スカラ座やメトロポリタン歌劇場、ワシントン・オペラなどの引っ越し公演に加えて、ルチアーノとホセと一緒に行った三大テノールのコンサートでも、日本のみなさんの前で何度も歌うことができて、幸運でした」 残念ながら、すでにパヴァロッティはいないが、「ルチアーノと一緒に行ったコンサートはすべて忘れがたいですが、なかでも最初のコンサートは特別でした。リハーサルでアリアやメドレーを一緒に歌った時間、大事なサッカーの試合の際に夕食をともにした時間。最高の思い出です」とドミンゴ。歌い手も、聴き手も、こうしてパヴァロッティの存在を感じながら過ごすことができれば、コンサートはいっそう特別な時間になるだろう。 「ルチアーノを愛情と称賛をもって偲びながら、ホセ・カレーラスと、それにアルメニア人のすばらしいソプラノ、ニーナ・ミナシャンとともにすごす、すばらしい音楽の夕べを、私はとても楽しみに待っています。そのことを日本のみなさんに伝えたい」 あの圧倒的な時間をふたたび味わう最後のチャンスであり、ドミンゴがイチオシする、近い将来のスター・ソプラノをいち早く聴く機会でもある。Profile1941年1月21日生まれ、スペイン・マドリード出身のテノール、バリトン歌手/指揮者/音楽監督。スペインのオペラ“サルスエラ”の劇団主宰の両親とメキシコへ移住し、メキシコシティ国立音楽院で学ぶ。59年にメキシコ国立歌劇場でデビュー。66年のニューヨーク・シティ・オペラの主演で評判を呼ぶと、その後はメトロポリタン、スカラ座、ロイヤル・オペラ・ハウスなど次々と国際的な舞台でデビューし世界的な名声を確立。年上のルチアーノ・パヴァロッティ、年下であり同じくスペイン出身のホセ・ カレーラスと共に三大テノールとしても広く知られる。バルセロナオリンピックでは大観衆の前で美声を披露、「史上最高のオリンピック賛歌」と高い評価を受けた。オペラファンが待ち望んだ一夜かぎりの「三大テノール 世紀の競演」が実現!
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