129 10月のなかばに北イタリア、パルマ近郊のサンターガタにあるヴィッラ・ヴェルディ(ヴェルディ荘)を訪れた。ここは、ヴェルディが1851年から死ぬまで住んだ場所である。《トロヴァトーレ》以降のオペラは、基本的にここで書かれたと言っていい。黄色い壁が印象的な邸宅は博物館として公開され、作曲家と妻ジュゼッピーナの居室を見ることができる。いや、「見ることができた」と言うべきだろう。なぜならそれは、10月30日をもって閉鎖されたからである。 背景は、ヴェルディ家(正確にはカッラーラ=ヴェルディ家)の当主が逝去し、4人の遺族の間でヴィッラを相続する争いが起こったことである。法廷は、各人が同等に相続することに決めたが、4人のうちで建物全体を相続し、他の3人に対価を支払う財力がある人は、ひとりもいなかった。その結果、全員がなんらかのかたちで相続するためには、ヴィッラ自体を売却せざるを得なくなったのである。実際には競売に掛けられるが、一般人や団体が購入することも可能。つまりアメリカ、中国等のインベスターが、競り落としてしまう可能性もあるのである。 そんなことになったら、イタリアにとっては国家的損失である。ヴェルディはイタリア統一に間接的に貢献した人物であり、《ナブッコ》の合唱〈行け、我が思いよ〉は当時からの国民的愛唱歌。いわばナショナル・ヒーローであり、歴史的にもっとも有名なイタリア人に数えられる。本来ならば国が買い取って、国立博物館にすべきだろう。しかし同国は、現在政権交代で政情不安にある。文化大臣も代わってしまい、それどころではないのだ。ヴェルディを愛する人々が、ヴィッラの行方を固唾を呑んで見守っていることは、想像に難くない。 そんな状況のなか、筆者は訪れる最後のチャンスに恵まれたが、行っておいてよかったと思っている。この地を踏んで、ヴェルディが最後まで人里離れた小村に住んだ理由が、わかったような気がしたからだ。彼はサンターガタについて、こう記している。 「ここより醜い場所を見つけることは、不可能である。しかし、ここより私が自由に生きられる場所を見つけることも、不可能なのだ」 ヴェルディは、人嫌いだった。なぜなら、彼にとって喧騒溢れる現実世界は、空疎でバナルと感じられたからである。彼の音楽劇、例えば《椿姫》は、人生を凝縮し、高貴な美へと昇華させたものだ。「生のエッセンス」を描いたわけで、そこに生きる彼には、俗世はあまりに凡庸で、耐え難かったのである。彼はサンターガタで農場を経営し、自分でも畑に出て行って野を耕した。そこで自然と一体になり、孤独を享受する時にだけ、彼は世間(そこには、彼を神と崇めた「音楽界」も含まれる)から解放され、ひとりの人間になれたのである。 ヴィッラの裏手には、彼が毎日馬車で畑に出ていった門がある。なんの変哲もない鉄柵から、先に続く道と畑を眺めていると、なにか胸を締めつけられるような気持ちになった。背後に広がるのが、ヴェルディが求めた「自由」そのものだと感じられたからである。人々が、彼の想いを理解し続けることができるためにも、ヴィッラが維持されることを願ってやまない。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.77連載城所孝吉サンターガタ 〜ヴェルディが求めた自由〜
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