eぶらあぼ 2022.11月号
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145 先日、ベルリン国立絵画館で行われている大規模なドナテッロ展を観てきた。ルネサンスを代表するこの彫刻家の美術史的な位置付けは、およそ次のようなものだという。「15世紀までは、人類は遠近法(写実)で絵を描くことができなかったが、ルネッサンスに入って三次元を二次元で表現する技法を編み出し、実践する芸術家が現れた。ドナテッロはそのひとりで、彫刻の三次元から絵画の二次元へと移る過渡期的形式としてのレリーフを作った」彼の作品は、今日の目で見ると、マリアやイエスの横顔がヒラメのように横に広がっていて、奇妙に感じられる。しかし、二次元における三次元の表現を見たことがなかったフィレンツェ人には、きわめてリアルに感じられたという。逆に言うと我々は、ドナテッロのレリーフを、当時の人間の感覚で見ることができない。 なぜこんな話をするのかというと、バロック音楽も似たようなものだと思うからである。「古楽」あるいは「ピリオド・アプローチ」とは、当時の演奏法や楽器についての知識をもとに、ロマン派以前の音楽を解釈すること。それゆえ我々は、古楽がタイムマシンであるかのように考えがちである。たしかにその知識を援用すれば、作曲家が何を考えて書いたのかが理解できるし、実際「いかにもバロックらしい」演奏が可能になる。 しかし現代の古楽が、当時の演奏様式と同一だと考えることは誤りである。音が残っていない以上、「100パーセントこうだった」とは立証できないだけでなく、当時のオリジナル自体が、おそらく我々にとっては意味を成さないためである。ドナテッロのマリア像は、今ではヒラメのように見えるが、我々は同様に、当時の感覚で当時の音楽を聴くことができない。もし本当にタイムマシンで18世紀に行き、ヴェルサイユやウィーンで演奏を聴いたら、それが今日の感覚(または美意識)から非常に離れていることに、失望するだろう。我々は、望むと望まざるにかかわらず、その後の時代の聴覚体験を抜きに、音楽を聴くことができないのである。 つまり突き詰めて考えると、当時の演奏法の再現ではなく、それを視野に置きながら、我々にとって意味のある表現をすることが肝要だとわかってくる。かつてアーノンクールは、「ハイドンやベートーヴェンは、当時の作曲ロジックを逆手に取った書き方をしたために、聴き手にとっては衝撃だった。私は観客に、その革新性とショックを追体験させたい」と語っている。そのため彼の演奏は、隈取りが濃くドラスティックだったが、ドナテッロのレリーフのリアルな驚きを、音楽で再現しようとしたと言える。 実のところ筆者には、「衝撃の追体験」が2022年の段階で、古楽に対する正しいアプローチなのかちょっとわからない。それについては、また考えてみたいと思うが、少なくともアーノンクールは、「タイムマシンの反対側には、作品の固定した真実の姿は待っていない」と理解していたのだった。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。 No.76連載城所孝吉ルネサンスの「ヒラメ顔レリーフ」と古楽の関係とは?

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