eぶらあぼ 2022.10月号
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ぶらあぼONLINE連載企画ぶらあぼONLINE連載企画青澤隆明執筆 Aからの眺望 青澤隆明執筆 Aからの眺望  しばらく、なにも聴かなかった。ルプーのレコーディングだけでなく、とくにピアノに関するものはなにも。仕事で必要があるものだけを、申し訳ない言いかたになるがしかたなく聴いただけだ。 かぎられた時間であれ、ラドゥ・ルプーという音楽に出会えたのは、私の人生にとってかけがえのないことだった。その音楽はときに魔法のように生じ、だからこそ冷厳に過酷でもあった。そして、彼という人間に触れることができた幸せは、私にはいつまでもあたたかな記憶だ。誰にも入り込むことができない場所を強情に保ってきた人だからこそ、そのやさしさはやわらかに溢れていた。うまく言えないのだが、それはてのひらの感じに近かった。逞しく、厚く、彼の弾く音楽ほどには決して大きくないが、しっかりした手の。 悲しいことがありましたね、なにか書きませんか、と言ってくれた人もいた。しかも、すごく言いにくそうに、おずおずと口にするようにして。それがとてもありがたかったので、少し時間をください、と私は答えていた。性急になにかを言うようなときでもなく、そんな気持ちにもなれなかったし、ルプーはそもそもそういう人でもない気がするから。 そうこうしているうちに、春は夏になった。しかも、ばかみたいな暑さである。そうしていま、ようやくこれを綴っている。ともかくも季節を感じてみれば、ルプーについて思い出すのは、彼がチャイコフスキーの『四季』を弾いたときのことだ。 私が聴いた2017年初夏のリサイタルはすべてひとつのプログラムで、だから続けて4度おなじ曲目を聴くことができた。ルプーは『四季』の全12曲を順番どおりに毎月弾いていった。アムステルダムの夜は、前半の6ヵ月をていねいに弾いたが、夏は慌ただしく過ぎた。そして、10月には感傷だけではない透徹した悲哀が美しく響いた。 楽屋に押し寄せる多くの知人に囲まれたかの音楽家に、私はすぐになにを言ってよいかわからず、ひとこと「10月」とだけ口にした。わずかな間をおいて、「10月……、11月のまえだね」とその人はおどけたように言った。 そんな絶妙の間にも、ルプーという人がいちいち潜んでいた。こうした些細な場面もまた、ぜんぶが昨日のことのように思い出される。あれは、いつの昨日だったのだろう? そう、それはベルガモでグリゴリー・ソコロフを聴いた日の前日だった。次の夜には、チューリッヒでピオトル・アンデルシェフスキのリサイタルを聴いた。そして、次の日にはウィーンにいた。ホテルにチェックインして、カフェで友人と落ち合って、それからムジークフェラインで、ふたたびルプーのリサイタルに臨んだ。2017年5月31日のことである。その2日後、ベルリンのピエール・ブーレーズ・ザールで聴いたのが最後になった。 ウィーンの夜、ルプーの演奏は、ほんとうに特別だった。ハイドンのヘ短調の「アンダンテと変奏」にはじまり、『四季』の多くの月も愛おしむように弾かれていった。そして、シューマンのファンタジー……。劇的なはじまりから、すべてが第3部に向かって、ひそやかに昇華していくように歩まれた。全篇が祈りのように奏でられていた。そこには、天国のような清純があった。 愛おしき者の魂と連れ立ち、あらゆる悲しみや苦しみや喜びを超えて、彼方へと安らかに見送るように、ルプーはそのとき自らを音楽にして、そのなかを行けるように橋を架け、天空への梯子を渡した。このときファンタジーの道行きのすべては、そのように歩まれるべくして、澄みやかに歌われていった。私にはどうしてもそのように感じられてならないのだ。そのときも、いまとなっても。少なくとも、あのとき私は、そのようにしてルプーの音楽と歩み、ともに浄化されていった。 音楽は虹のようなものだから、そのときが過ぎれば、たちまち消えてしまう。そのときは、そのときでしかなく、そこでしか起こらない。けれど、あの光はそれを伝えた空気のなかに溶けている。そのように、私のなかには、あのときルプーが渡した透明な橋がずっとある。そのなかを彼とともに伝っていくものがあったことを知っている。 ラドゥ・ルプーが亡くなったと聞いたとき、私の心にまさに鳴り響いていたのも、彼がウィーンで弾いたファンタジーだった。いや、あれからずっと鳴りやむことはなくて、そのときにまた熱く湧き上がってきたのだ。 さまざまな思いをひとすじの光に収めるように、私はその至純の響きをみつめている。心清らかに澄みきって、あの橋を渡るように、かの人が音楽にかえっていくことを、心ひそかに祈る。45

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