eぶらあぼ 2022.10月号
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167 ドイツでは、オーガニックパンが人気である。環境問題は、この国では1970年代から大きなテーマだが、現在ではそれが生活の細部にまで浸透している。有機小麦等を使っているパン屋も、「3歩歩けば突き当たる」ほどの頻度で存在する。 ただし、そこで売っている商品には、疑問を感じなくもない。というのは、「いかにも天然酵母を使いました」という痩せたパンが、ショーケースにひしめいているからである。たとえ天然酵母を使っても、ふっくらとしたパンを焼くことは可能である。実際その方が、味も風合いもいい。しかしお店では、お客さんが「自分は環境に優しいパンを買っている!」という満足感を得られるように、わざと膨らみの少ない(=ナチュラルっぽい)パンを売っているのである。 先日、ある著名な古楽指揮者と彼の楽団の演奏を聴く機会があったが、これと似たような印象を受けた。オケは当然古楽器を使用していたが、音楽的という以前に、ひたすら古びた、汚い(=不純な)音を出すことに意を注いでいた。金管(バルブがなく、自然音階を使う)は調子っぱずれであることを強調し、ティンパニは努めて鋭角的な叩き方をする。ソロを弾いたコンサートマスターは、故意に音程を外して「当時はノンヴィブラートだったのですよ」と誇示していた。 もちろん、金管の音が外れるのは楽器の特性だが、これは当時の奏者たちが調子を合わせようとしなかった、ということではない。弦楽器も、不安定な音程が良しとされていたわけではないだろう。歴史的演奏解釈が勃興した数十年前には、パイオニアであるアーノンクールも、そうした不調和な響きを(啓蒙的な意図から)これ見よがしに強調していた。しかし古楽が定着した現在では、美しく、心地よい響きを主軸とした演奏スタイルが一般化している。ピリオド演奏がエンライトメントだった時代は終わり、現代の我々の感じ方に合致した様式が確立・浸透したのである。 一般論として、古楽は過去の事実を再現することではなく、当時の演奏習慣を現代に移し替えること(=再解釈すること)だと考えられる。18世紀の聴衆も、汚い音を好んで聴いていたわけではなく、不安定な音程は、彼らの耳には美しいと聴こえたのであった(それ以外に聴く機会がなかったのだから!)。今日の古楽演奏では、「型」に固執することは過去に属すると思っていたが、それが(一流音楽家、しかもスペシャリストの間で)存在することに、驚きを禁じることができなかった。 もちろん観客のなかには、「ああ、これが古楽器の音なのだ!」と感激し、満足する人もいるに違いない。しかし筆者のように、すでに長年にわたって古楽を聴いてきた人間には、極めて人工的でわざとらしく感じられた。天然酵母と有機小麦を使っても、しっかり膨らんで風合いもいいパンが存在するように、ピリオド楽器を用いても美しく、調和した演奏をすることは可能である。大切なのはそうした「型」を守るよりも、現代の我々の耳にとって音楽的に意味をなす演奏をすることだと思うが、いかがだろうか。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。 No.75連載城所孝吉オーガニックパンと古楽演奏に共通する問題とは?

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