eぶらあぼ 2022.9月号
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第95回 「何でもかんでも説明してほしい人々」 人が舞台で動いていたら、何かを演じている、と思うのだろう。演劇でもオペラでもバレエでもそうだ。だからどんな「物語」の中で、何の「役」を演じているのかを考える。 しかしコンテンポラリー・ダンスの場合は、ちょっと違う。基本的には「ダンサーひとり一人の身体、そのありようを晒す感覚」が根底にある。たとえその作品に「物語」や「役」があっても、替えが利かない一人の生きた身体を舞台上に置く、その意味を突き詰めた結果がダンスという形をとっている。そうでないダンスは振り付けられた動きを再現しているにすぎず、ただただ退屈なだけである。 とくに「ダンスでしか表現できない領域」に入っている作品の場合、観客は頭で理解できる以上のなにかを全身で受け取ってしまう。その正体を考え続けモヤモヤした状態を味わうのがアートの醍醐味なのだが、知的体力がない人は耐えられない。自分で考えるのではなく、スッキリしたい! 早く楽になりたい! 誰か教えて!と「答え」を求める。思考停止したいのだ。それができないと「なんだこの作品、説明不足じゃん!」と怒り出すのである。 現在のコンテンポラリー・ダンスにつながる「新しい芸術的なダンス」が生まれたのはここ100年ちょっとのことだ。モダンダンスは様々な神話や文学をモチーフにした「物語的なダンス」を発達させた。しかし「ダンスは身体。ドラマはいらん!」と、コンセプチュアルな身体表現を追求するポスト・モダンダンスが出てきた。だがそればかりでは味気なく、モダンバレエやダンスシアターなど様々な表現を取り込んだコンテンポラリー・ダンスがでてきた。 すると再び反動で、1990年代にはドラマ的な仕掛けで感動するのを良しとしない「スペクタクル拒否」Profileのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com138のダンスが出てくる。講義のようなレクチャー・パフォーマンスや、踊りらしいことをほとんどしないノンダンスなどが登場した。 そうなると今度は「ガッと踊れや!」とヨーロッパ以外のバットシェバ舞踊団などイスラエルから揺り返しの衝撃があった。その結果いまではクリスタル・パイトやマルコ・ゲッケなど若い世代が「スペクタクル拒否を超えた、身体性の高い、あえての大きな作品」を生み出している。 まあ日本ではこうしたアップデートができていない人も多く、いまだにスペクタクル拒否最高! 踊らないダンサーって新しい! みたいなことを言っているわけだが、とりあえず放置してよろしい。 なにより日本の若い振付家の中には、こうした「スペクタクル拒否以降の強い身体性」を感じさせてくれる人が出てきているのだ。最近では下島礼紗『세월(セウォル)』や中川絢音『GOOD COW 権』などがそれにあたる。観客に共感を求めるエンタメの作品ではなく、物語的に理解して安心したい連中の脳を揺り動かし考え続けることを課すような作品である。観客も嫌いなら無視すればいいわけだが、そうできないくらいのエネルギーを「喰らわ」されている。 ダンスもいよいよ面白くなってきたじゃないの。乗越たかお

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