31取材・文:青澤隆明 ジョナサン・ノットと東京交響楽団のシーズン9。彼らの堅い信頼の絆は、パンデミックのさなかにもますます深まり、さらなる次元へとつよく柔らかに踏み込んだ感がある。 来たる夏のプログラムは、ラヴェルの「海原の小舟」、ベルクの「七つの初期の歌」、マーラーの交響曲第5番というノット一流の構成。新ウィーン楽派は今シーズンのテーマだし、数年来取り組んでいるマーラーの交響曲もいよいよ佳境に入っていく。フランス近代も巧みに盛り込まれる。異なる時代や地域、様式や作風を相互に織りなす、めくるめく冒険。発見と驚きの旅が、知性の愉楽だけでなく、ぐっとエモーショナルな熱を放つのがノットの大きな魅力だ。 「私はつねに新ウィーン楽派に魅了されてきました。現代音楽の大半にいたる重要な鍵だからです。その詩情、和声の密度と燻りは、非常に喚起力に富んでいます。濃縮され、充填されて、内部で燃えたぎっている。シェーンベルク、ウェーベルン、ベルクの作品を少しずつ定期的に採り上げていくことで、新旧双方の音楽を結びつけられると考えました。7月は、いろいろな意味で興味深いプログラムです。まず、すべての曲が同時代、20世紀初頭に書かれている! マーラーとベルクの組み合わせはロマンティックな要素が濃厚で、全音音階がまだ用いられ、もちろん流動的な性格もある。美しいフランス音楽はある状況を開示し、それが消失するとともに私たちは現実世界に戻ります。ラヴェルでは、舟が浮かび、大きな波がうねっているところが私は好きなのです。ベルクの歌曲の詩はすべて一日の終わりや夜の時間に属していて、愛、夢、森を歌うもので、自然の要素がとても色濃い。それに、ベルクの終曲はハ短調だから、休憩後にマーラーで嬰ハ短調へ進むのも素晴らしい効果をもたらすのではないかと思いますよ」 異なる作品が出会い、通時的に響き合うことで、ひらけてくる眺望も自ずと変わってくる。 「私が望んだのは、一種の詩的な世界です。マーラー第5番冒頭のトランペットのファンファーレを、どうしたら全体の旅のなかで意味あるものにし得るか。どうやって現実の世界を忘れて、音楽の内に入って行けばよいのか。ラヴェルでは出だしから、たちまち海の流れが生まれ、私たちは自分の身体を失います。これは私がとくに強く惹かれていることなのですが、音楽というものは大洋であって、決して山岳ではない。大洋は山と同じだけの巨大さをもち、エネルギーの上でもつねに同じだけのパワーがある。マーラーの葬送行進曲でさえも、たんに規則的に進行するのではなく、そこには流動性がなくてはなりません。つねに張力が存在するのです。ラヴェルはその意味で渡し舟になるし、ベルクでは歌手が作品の豊かな歌心を実らせてくれる。マーラーの強みは非常に旋律的なことだと思いますが、歌には本来テクストがあり、声があって、人間性があり、個人的な魂のような何かがあるはずです。一曲一曲の旅、それから一夜を通じての旅がひとつの全体像を描き出せればと私は願っています」 そうして、音楽監督ジョナサン・ノットと東京交響楽団はまた、多様な諸作を通じて、世界や宇宙とどのように葛藤し対峙していけばいいのか、ということを果敢に例示し、聴く者を創造的に勇気づけてくれるのだろう。 「私がいつも伝えたいと思っていることですが、あらゆる音楽はアレゴリー(寓意)という要点をもっています。偉大で劇的な作品であるだけでなく、古典派にせよロマン派にせよ『作曲家たる私がこれを感じた』ということを語っている。大作曲家たちは人生の混乱に対して、非常に寛容でした。だから、ある天才が書いたものだとしても、私たちはそこで同じ旅を辿ることができるのです、彼らと同じような人生の旅を生きぬくことなしに。私がしなければいけないのはただ、絶えず手綱を引いて、聴衆を惹きつけながら、物語を語りぬくことです。聴く方々が曲の起伏をともに生きていくことができるように。マーラーの第5番の終わりには、誰しも自分を抑えられず、『YEAH!』と叫びたくなる(笑)。ですが、それはとても長い闘争の果てのことなのです」Profileイギリス生まれ。ケンブリッジ大学で音楽を専攻し、フランクフルトとヴィースバーデンの歌劇場で指揮者としてのキャリアをスタート。ルツェルン交響楽団首席指揮者兼ルツェルン劇場音楽監督、アンサンブル・アンテルコンタンポラン音楽監督、バンベルク交響楽団首席指揮者を経て、2017年にスイス・ロマンド管弦楽団の音楽監督に就任。その抜群のプログラミング・センスに加え、幅広いレパートリーを誇り、ウィーン・フィルやベルリン・フィル等のオーケストラや音楽祭へ客演している。東京交響楽団へは11年にデビューし、14年度より第3代音楽監督を務める。音楽というものは大洋であって、決して山岳ではない
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