eぶらあぼ 2022.7月号
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133 先日携帯を見ていたら、音楽家向けの就業不能保険の広告が表示されて驚いた。これまでミュージシャン(および類似する舞台人)用の就業不能保険は、少なくともドイツには存在しなかった。事情を知る人、また音楽家自身にとっては、快挙ではないだろうか。 なぜなら音楽家は、就業不能のリスクが高い職業だからである。器楽奏者ならば、不自然な姿勢で特殊な動作が長時間要求される。弦楽器の場合は、腕を上げたままで左右非対称に楽器を持ち、指が複雑な動きをする。管楽器の場合は、唇が変則的に圧迫され、肺や呼吸筋もフル回転させる。歌手に至っては、身体そのものが楽器。小さな声帯に圧力を与えることで、超人的に大きな声を出す。 こうした「不自然な」行為が、加齢や間違ったテクニックによって能力低減(あるいは喪失)を引き起こすことは、想像に難くない。さらに演奏には、極度の緊張が伴う。人前でミスなしで弾くプレッシャーは絶大で、高いストレスを生み出す。それを20、30年続けるだけでも負担だが、技術の衰えとともにプレッシャーは増すから難しい。プロの音楽家ならば誰でも、「自分は定年まで弾き続けられるだろうか」と不安に思うものである。オフィスワークをしたことがないために、つぶしがきかないことも問題。教職以外に復職できる可能性は低い。 実際大抵のプロ、とりわけオケマンは、理学療法、マッサージに通っている。バイエルン放送交響楽団のオーケストラ・アカデミーでは、若いメンバーに早くから療法士にかかることを勧めているそうだ。指揮者やソリストのなかには、精神的負担を軽減するために、セラピストにかかる人もいる。つまりスポーツ選手の身体&精神ケアと同様で、音楽家も極度のハイパフォーマンスを迫られるからである。 もちろんこれまでにも、理論的には保険に加入できたが、音楽家のニーズに合うプロダクトはほとんど存在しなかった。普通、就業不能保険は「能力の何パーセントが失われたか」によって支給される。座って作業ができない、腕が動かない等の「障がいの程度」によって判断されるが、ヴァイオリン奏者なら指の先端が傷ついただけ、トロンボーン奏者なら肺活量が20パーセント減っただけで(コロナの後遺症!)、働けなくなる。それに応じる保険はなかったし、うまく交渉したとしても、巨額の保険料を請求されただろう。 そのため、スタンダードな就業不能保険が登場したことは、プロには歓迎されると思われる。少なくとも、50歳以上の音楽家で心を動かされない人はいないはず。問題はその年齢ではすでに遅く、加入できないか、極端に割高になってしまうことである。若い時点で入る必要があるが、実際に弾けなくなるかはわからない。どの保険でもそうだが、このはかりがたさ、リスクの想定に、難しさがあると思う。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。 No.72連載城所孝吉音楽家は健康リスクの高い職業

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