25── コンクールに向けての準備のなか、とくに意識したことは? 2年ほど前から、日本の音楽雑誌をたくさん買って、2010年、15年のコンクールの審査員の採点表を見たり、誰がどんな曲を弾いて1次に受かっているのかを、正の字を書きながら数えて調べるということをしました。受けるなら、全力で1位をとりにいかなければ他のコンテスタントにも失礼だと思いましたから。僕ができることは、まず戦略を立てることでした。今となっては、正の字を一つずつ書いていったのもいい思い出です。 例えば1次では、その結果が今回の審査の特徴を示すと思ったので、とにかく落とされないもの、かつ、自分のスキルが出せるレパートリーとして、技術的なエチュード、後期のノクターン、そして自分の音楽性が出せるスケルツォを選びました。そのあとの2次以降はもう少し個性を出していいと思ったので、120%自分を出していきました。 最も大事にしたのは音響です。審査員からどう聴こえているのか、その立場を想像して演奏しなくてはいけません。ショパンだけ何百曲も聴くことになるコンクールですから、なおさらですよね。少しでもおもしろいもの、超絶ピアニシモや豊かでふくよかな音を届けるために、自分の演奏の前から審査員席の後ろで聴いて、どのくらいの音量を出せばいいかを研究しました。やっぱり耳は大事です。── 私が反田さんの演奏を初めて生で聴いたのは、3年くらい前のオール・ショパン・プログラムだったのですが、あの頃に比べるとショパンの表現が大きく変わりましたよね。どうやって変わったのですか? 純粋にピオトル・パレチニ先生のもとで勉強してきたことと、僕のショパンに向かう姿勢が変わったことによると思います。最初はコロナで1年延期だなんて!と思いましたが、今となっては時間ができてよかったと思っています。最後の1年で、自分の音とショパンの音について研究できました。 “あなたにはショパンは向いてない”と言われてくやしい思いをしたこともあります。それを見返したいという気持ちもありました。◎第2位 反田恭平(日本)Kyohei Sorita © Haruka Kosakaあふれた人で、音楽もそういうものだと思われているでしょう。だけど僕自身は、完全に真逆のキャラクターです。 でも、ショパンだって人間でした。彼は生涯でずっと悲しんでいたわけではありませんし、彼にも幸せな時間があったはずです。 たとえばマズルカやポロネーズは、ダンスです。彼にもある意味で“パーティー・アニマル”の一面があった。とくにロマン派時代はサロン文化が盛んで、貴族社会の舞踏会も頻繁に行われていました。人間には、複数の側面があります。ショパンにも確実に、そんなエモーションにあふれる部分がありました。 これがショパンへの新しいアプローチなのかはわかりませんが、僕の性格からして、あの演奏こそが、今もっとも確信をもってできるショパンの表現だったのです。
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