97『くるみ割り人形』に異変あり!〜異国趣味について考える 欧米のクリスマス・シーズンにおける定番バレエは、言うまでもなく『くるみ割り人形』である。ところがベルリン国立バレエ団ではこの12月、同作品を上演しないことを決定した。というのは芸術監督代行のクリスティアーネ・テオバルトが、プティパ原案によるオリジナル版が差別的であると判断し、「大事をとった」からである。この作品には、様々な国のダンスが含まれているが、「アラビアの踊り」と「中国の踊り」は、今日の視点から見ると紋切り型で、現実のアラビアや中国とは異なる。それゆえ、「なんらかの改訂を経てから上演すべきだ」とみなされ、演目から降ろされたのである。 これは、なかなか難しい問題だ。ドイツのジャーナリスト、新聞の多くは同バレエ団の判断を厳しく批判。それはこうした論理が一般化したら、エキゾチックな舞台作品の上演が、原則的に不可能になるからである。オペラやバレエには、異国趣味をテーマとしたものが山ほどある。《後宮からの逃走》、《蝶々夫人》、《トゥーランドット》、《ラクメ》、『バヤデール』…。これらの作品には、成立時点での人々の東洋理解が反映されているが、それに問題がなくもないことは、我々自身が一番よく知っている。海外での《蝶々夫人》の演出が日本人の目には奇妙で、居心地の悪いものであることは、明らかな事実だからである。トルコ人にとっても《後宮からの逃走》は、少なからず鼻白む作品であるに違いない。 しかしそれに、ポリティカル・コレクトネスの基準を当てはめたら、台本や設定に手を入れないわけにはいかなくなる。『くるみ割り人形』ならば、筋と関係のないディヴェルティスマンの一部を改変するだけなので、問題ないのかもしれない。しかし、《蝶々Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。夫人》から「ハラキリする現地妻=芸者」蝶々さん、《後宮からの逃走》から「男尊女卑の野蛮な番人」オスミンをとったら、物語そのものが成り立たなくなってしまう。プティパを改変することを許したら、次はモーツァルトやプッチーニを変えるようになる、という懸念には、現実味があるだろう。新聞の読者投書欄には、「さらばバタフライ! さらばトゥーランドット!」という(皮肉を込めた)言葉が躍った。 これはより一般的にとらえるならば、「現代人が過去とどう対峙するか」という問題とも考えられる。過去を過去として割り切り、今日の文化認識や人権を理解したうえで作品を受容するのか。それとも過去の「過ち」を修正して、現代のコンセンサスに合わせて上演するのか。筆者は、「蝶々さんが体現する日本女性のステレオタイプは、上演により再生産され、残り続ける」という論拠には、説得力があると思う。しかしオリジナルを改変し、(それ自体が恒常的=絶対的でない)我々の尺度に合わせて上演する、という考え方には、恣意性だけでなく、何か恐ろしいものを感じてしまう。異国趣味に関するこの問題は、欧米の関係者の間では予感されていたが、今回の件でついに表沙汰になった、という気がしないでもない。城所孝吉 No.66連載
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