eぶらあぼ 2021.11月号
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35── キャンベルさんと音楽の出会いはどのようなものだったのでしょう。 私はニューヨークの下町ブロンクス生まれですが、祖父母はアイルランドからの移民です。祖父は地下鉄の運転士をしながら、たくさんアイルランド音楽のSP盤を収集。夜になって酒を飲みながら歌いだすと、祖母はアコーディオンを小さくした民族楽器のコンサーティーナを箱から出して弾きます。大勢の親戚も加わり、賑やかでした。 7、8歳になるとアイルランド移民がお金を出し合って建てたカトリック教会で礼拝の助手を始め、12歳くらいまではオルガンの伴奏で皆と一緒に讃美歌を歌っていました。祖母はナット・キング・コールも聴いたし、母は音楽劇も大好き。ミュージカル『ヘアー』に夢中になりレコードを買って帰ったり、メトロポリタン歌劇場ではマリア・カラスやジョーン・サザーランドの超絶技巧に熱狂したりしていました。母の死後、日本まで持ってきたレコード箱の中にあったSP盤を今年、YouTubeチャンネルを始めたのを機に初めて聴いたのですが、アイルランドから二度と祖国の土を踏まない覚悟で米国へ渡った経済難民の一家の歴史、記憶がぎっしりと詰まった音たちに色々な思いがこみ上げてきて、言葉に詰まってしまいました。 母の再婚を機に英ケント州へ移り、日本の中学生に当たる年齢でフルートを始めました。次いで一家はフランスに引っ越し、さらに米サンフランシスコへと戻ります。サンフランシスコ音楽院で週1回のレッスンを受けながらフルートを続けていたころ、私のアイドルはジャン=ピエール・ランパルでした。当時あまり演奏されなかったフルートのバロック曲から室内楽までランパルの明るい音色は素晴らしく、かっこ良かったです。モダンバレエやジャズダンスも習い、舞台芸術への関心を強めていた時期にも当たり、サンフランシスコ歌劇場で《カルメン》《トスカ》などの情熱的なオペラも楽しみました。 ハーバードの大学院に通った4年間はパートナーが並外れたクラシック音楽ファン、レコードコレクターだったことも私の知識を広げました。ヴィルヘルム・フルトヴェングラーら、往年の名演奏家の存在を教えられたのも、今となっては大きな財産です。── 音楽は時とともに形を変えながらいつもキャンベルさんとともにあったわけですが、コロナ禍で関係性は変わりましたか? 音楽を聴く行為自体は増えました。以前は出張などで移動する時間に合わせ、あらかじめ作ったプレイリストを再生していたのですが、現在は家の中で聴き、新たな発見に刺激されています。ポッドキャストでアーティストの話を聴きながら新しい作品、演奏家を知ると即ダウンロード、シームレス(切れ目なし)で聴ける時代はありがたいです。 皆で立ち上がって体を動かすといったライブの興奮は求めないので、ポップスなら自宅のデバイスで十分です。ただしクラシックは生の静けさの中、そこだけで発生する奇跡の音楽の喜びや不安を不特定多数の人々と分かち合い、今までとは違う意味、気持ちが思い描く光景を感じる体験を伴いますから、ライブを絶やしてはならないのです。 ライブがなくなれば、まだ音楽大学に通っていて舞台に立ったり、録音を制作したりの経験がない若い人たちの未来への扉も、完全に閉ざされてしまいます。── プロジェクト・アンバサダーとして、期するところをお聞かせください。 私と同じく、どっぷりクラシック音楽に浸かっているわけではないけれど、ちょっとは興味がある層の人々が不特定多数の人々と時間を共有して、何か──できれば強さを感じ、勇気の糧にしてほしいと願います。普段は違う場所にいる200以上の団体、人々が共演することで楽曲や演奏、興行方式などにどのような派生的展開、多層(ミルフィーユ状)の工夫が生まれるのかだけでなく、その結果が雲散霧消するのか残るのかまで、一緒に働きながら見届けるつもりです。思えばわたくしの人生の転機の節目に、クラシック音楽はいつも現れてきました。また、新たなランドセルを背負った気分です。── 期待しています! ありがとうございました。人生の節目ごと、必ず音楽がありました〜「クラシック・キャラバン2021」プロジェクト・アンバサダーに聞く取材・文:池田卓夫 日本クラシック音楽事業協会が文化庁の支援で立ち上げた業界横断の全国公演ツアー「クラシック・キャラバン2021」が9月3日の沖縄県を皮切りに始まり、各地で進行中だ。俳優の壇ふみとともにプロジェクト・アンバサダーを務める早稲田大学特命教授(日本文学者)のロバート キャンベルに音楽への思い、キャラバンに対する期待を聞いた。

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