116の上に築かれてきたことを思い出させた。アートが国威発揚に利用されることなく、といってヒステリックな糾弾でもない。ただただ少女の美しい歌声によってである。 ドゥクフレの「変な衣裳(地元の妖精など)でのパレード」の演出はしばらく各大会で踏襲されていたが、その流れを断ち切ったのが北京大会だった。「中国にはとにかく人間だけはたくさんいるんじゃー!」とばかりにスタジアムを人間で埋め尽くし、さらにはカンフーなど一糸乱れぬパフォーマンスを披露した。「個よりも全体が優先される国家である」こと、そしてその尋常ではない威力を強烈に印象づけたのだった。 ロンドン大会では、バングラデシュ系イギリス人のアクラム・カーンが演出。自らも強烈なソロのシーンを作っていた。ちなみに今回の東京大会では最終聖火ランナーに大坂なおみが登場したが、放送では彼女の両親の出身国について説明していた。しかし彼女の見た目がアジア系だったら、そんなことをしただろうか。本当に多様性が実現した社会とは、人の評価が出自などでは左右されず、ありのままで受け入れられる社会のはずだ。まだまだ日本が「いかに見た目で人を判断する社会か」を表明することになってしまった。 アートは、ときにその国の本質までも炙り出してしまうものなのだ。第83回 「歴代オリンピック開会式の名演出家(振付家)たち」 賛否うずまくなか開催された東京オリンピック開会式。直前までトラブルが続いた現場の混乱ぶりは想像するにあまりある。オレはプロの目から開会式をパフォーミング・アーツとして分析し、ネットにアップした。ショボかった原因として挙げたのは「高さの演出がない」「演出のサイズが競技場の大きさに合っていない」「全体を貫くテーマや流れがない」の三点(と予算とか横やりとか色々)。これには「腑に落ちた!」との反響が多く、あらためて舞踊評論の重要性を認識してもらえたかと思う。 さてオリンピックの開閉会式は、開催国の歴史や文化を世界に向けてアピールする場でもあり、コンテンポラリー・ダンスのアーティストも多数活躍してきた。 その嚆矢はアルベールビル大会で、わずか29歳にして総合演出に就任したフィリップ・ドゥクフレである。もっとも本連載第40回で書いたように、コンテンポラリー・ダンスでは「大人数で揃える群舞」を避ける傾向がある。かつてのナチスドイツやカルト宗教などのプロパガンダにダンスが利用された反省があるからだ。そこでドゥクフレは大勢にヘンテコな生き物のような衣裳を着せ、各自バラバラの動きのまま、ゆるーく行進させたのである。巨大なエアリエル(空中パフォーマンス)の装置を作ったりと「高さ」の演出も凝らされていたが、特にすごかったのは国歌斉唱だった。小さな女の子が、手すりで囲まれた台の上で歌い出すと、その台がどんどんどんどん何メートルも上昇していくのだ。しかもフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」はもともと革命歌なので「奴らの血で大地を染めろ!」と物騒な歌詞がある。それを少女の澄んだ声で歌われる無垢さと不気味さ。たしかにフランス革命時には、これくらいの年代の少女達も硝煙のなかで革命歌を歌ったのだろう。この華やかなフランスという国家が、血の歴史Proleのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com乗越たかお
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