eぶらあぼ 2020.12月号
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97オペラの字幕は人物の「ココロ」を訳す 先月号では、字幕の技術的な難しさについて話したが、今回は、訳す上で何が大事かについて考えてみたい。 筆者が学生の頃、何度も舐めるように観た映像は、カルロス・クライバー指揮の《ばらの騎士》だった。1979年、バイエルン国立歌劇場における上演で、ギネス・ジョーンズ(元帥夫人)、ブリギッテ・ファスベンダー(オクタヴィアン)、ルチア・ポップ(ゾフィー)という配役によるもの。なかでも魅了されたのが、全盛期のジョーンズの素晴らしい演技だった。オクタヴィアンとの恋や、自分の若々しさを、一瞬のうちに連れ去ってしまう「時」のむごさ。それを忍び、受け入れる想いを、目を伏せるだけ背を向けるだけで、痛切なまでに表現していた。頂点は、何といっても第3幕で、オクタヴィアンをゾフィーに譲る元帥夫人は、有名な三重唱でこう歌う。「私は自慢できる。私の愛し方は、正しいものだったと」ジョーンズの万感の表情と字幕を見ると、元帥夫人の切なさが痛いほど分かって、居ても立ってもいられなくなった。 ところが…。数年経ってドイツ語を理解するようになった時、これが誤訳であることに気付いたのである。「Hab’ mir’s gelobt, ihn lieb zu haben in der richtigen Weis’」とは、正しくは「私は、彼を正しいあり方で愛そうと誓った」という意味。訳者が「自慢できる」と訳したのは、使われている動詞「geloben(誓う)」を、「loben(褒める)」と取り違えたためだろう(完了形は両方とも「gelobt」)。つまり「私は、彼を正しいあり方で愛したことを、自分自身に対して褒めてあげられる」と理解し、「自慢できる」と意訳したのである。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。 これが分かった時、筆者は正直なところがっかりした。「誤訳」の方が、ずっと元帥夫人の心境に合っていると思われたからである。彼女はここで、時の無常を受け入れ、恋人を他の女性に受け渡すが、普通の人にはそんなことはできない。我々が感動するのは、その聡明さ、気高さゆえだが、もし彼女が、片目で泣きながら「私、自分を褒めてあげられると思う。彼を正しく愛しただけでなく、彼の他の女性への愛さえも、祝福してあげるのだから…」と歌ったとしたら? 筆者には、そんな調子の方が、大げさな「誓い」よりも、彼女の人柄に合致しているように感じられる。 要するに言いたいのは、「字幕では、訳の方が原文以上であり得る、それが起こるのは、訳者が作品を真に理解している場合だ」ということ。クライバー盤の訳者が誰かは覚えていないが、字幕は、この場面以外でも、役の心理を的確に突いた見事なものだった。字面が違っていても、ドラマのツボをとらえ、読み手に伝えることのできる訳の方が、「文字通りに正しい」訳よりも良いことがある。セリフの「ココロ」を直截的に伝える表現こそが、実は「内容的には正しい」のかもしれない。城所孝吉 No.53連載

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