eぶらあぼ 2020.10月号
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27困難に立ち向かう王子カラフの勇気と愛を歌う取材・文:室田尚子「大島さんの演出は、“静”と“動”のコントラストが素晴らしいです。激しいダンスは人間業とは思えない動きに圧倒されますし、それがフッと止まった瞬間にその静寂から音楽が生まれてきたりする。ダンスの持っている“静”と“動”をどのように音楽と結びつけていくかが、今回のみどころの一つになると思います」 ダンスも歌も、生身の人間が体一つですべてを表現するという共通点がある。「大島演出からはそのことに対する共感を感じる」と福井は言う。音楽とダンスが一体となった表現は「ある種の理想的なオペラの姿ではないか」という言葉には、大いにうなずかされた。 岩手県出身である福井敬は、3月に山形に新しくオープンしたやまぎん県民ホールで歌えることも楽しみにしているという。「山形のみなさんは本当に音楽好きなんです。山形交響楽団という素晴らしいオーケストラも持っている。そこに初めてオペラ劇場ができたことは、同じ東北人として嬉しく、誇らしいです」 日本人のキャストとスタッフで作り上げるオペラは、世界的にも高いレベルになってきている。そんなオペラが日本各地で観られるというのは、本当に素晴らしいことだと思う。「もともと日本人は、能や歌舞伎といった伝統芸能を愛し、育ててきた背景があります。そして、洋の東西を問わず、音楽と言葉が一体となった音楽劇という様式の持つ美を求める気持ちが、人間にはあるのだと思います。コロナ禍を経験して、総合芸術としてのオペラを欲する思いはますます強くなってくるのではないでしょうか。この《トゥーランドット》がそれに応える先駆けになれば嬉しいです」 困難な時期を経て福井敬が生み出す、「新しいカラフ」の誕生を心待ちにしたい。 新型コロナウイルス感染症のためにしばらく沈黙していた日本のオペラ界だが、徐々に公演を再開しつつある。今年のグランドオペラ共同制作は、神奈川・大分・山形でプッチーニ畢生の傑作《トゥーランドット》を上演すると発表された。王子カラフを歌うのは、日本のトップ・テノール福井敬である。コロナ禍において、他の多くの演奏家同様に舞台から遠ざかっていた福井は、その間の心境を次のように語る。 「一時期は音楽に対する意欲が減退してしまいましたが、ある時ふと、テレビから流れてくる音楽を耳にして、人は心の中で音楽を求めている、ということを強く感じました。コロナで誰もがどうしたらいいのか悩んでいたと思いますが、各々が自分の専門の分野で求められる時は必ずくる。そう思った時、改めて自分自身の音楽に取り組む気持ちが生まれました」 イタリア・オペラからワーグナー、フランスものまで素晴らしい表現力で歌い続ける福井の歌い手としての実力については、今さら述べる必要もないだろうが、彼がもっとも多く舞台で演じているのが、《トゥーランドット》のカラフなのだそうだ。 「《トゥーランドット》という作品は、物語自体のスケール感が大きいですし、要求される声や音楽性の深さがプッチーニのオペラの中でも際立っています。カラフという役も、極限まで自分自身の能力を出さないとなかなか歌えないんです。だからこそ特別なオペラだし、特別な役です」 福井が最初にカラフを歌ったのは30代初め頃。それから様々なプロダクションで演じてきているが、常にその時の自分自身の声や身体を使って、全力でアプローチしてきたという。 「カラフは、その時の自分の声や考え方が顕著に現れる役なんですね。若い時は若い時の声で演じるカラフだし、歳を重ねて音楽性が深まってくればまた違うカラフになる。現在私は50半ばを過ぎたところですが、今の自分なりのカラフをどう表現していこうか、と考えています。今の自分ならどんなものができるだろうか、と考えると楽しみで仕方ありません」 今回演出・振付を手がけるのは、ダンス界の鬼才として世界中で活躍している、H・アール・カオスを主宰する大島早紀子。実は福井は過去2回、大島演出のオペラに出演している。Prole東京二期会《ラ・ボエーム》での鮮烈なデビュー以来、出演作品は60を超える。芸術選奨文部大臣賞新人賞及び文部科学大臣賞、ジロー・オペラ賞、出光音楽賞、エクソンモービル音楽賞本賞等受賞。オペラでの数々の主演では、英雄的かつノーブルな存在感と優れた演唱で、トップ・テノールとして聴衆を魅了し続けている。コンサートでもズービン・メータ指揮ウィーン・フィル「第九」をはじめ、N響等主要楽団と多数共演。今後は東京二期会コンチェルタンテ・シリーズ《サムソンとデリラ》主演予定。二期会会員。

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