eぶらあぼ 2020.09月号
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93「私のばら」はメランコリック 夏場に「またやってしまった!」と目を覆うのは、日なたに置き忘れた花(花瓶)である。ドイツでは夏でも天気の変化が激しく、朝曇っていても、午後にはからりと晴れることが多い。それゆえ帰宅時に気がついてがっかりするのだが、特にばらは、暖かいところに置いておくとすぐに萎れてしまう。首がうなだれ、悲しそうにしているので、水揚げを行って応急処置。運が良ければ数時間で復活して、瑞々しい美しさを取り戻してくれるが、いつもそうなるとは限らない。 この作業をしていていつも思い出すのが、シューマンの〈私のばら〉という歌曲である。1850年、詩人ニコラウス・レーナウの訃報に接して書かれた歌曲集(作品90)の第2曲だが、まさにこの萎れた花がテーマとなっている。春の美しい飾り、私の喜びであるばらよ。熱い陽の光を受けてうなだれ、色褪せたお前に、僕は、暗く深い井戸からすくった一杯の水を与えよう。私の心のばらであるお前よ! 静かな苦しみに打ちのめされてうなだれ、青ざめたお前の足元に、僕は、花に水を与えるように、自分の魂を注いであげたい。たとえお前が花のように、生き生きと蘇ることがなくても。 これは、(何らかの理由で)悲しみに打ちひしがれた女性を、何もできずに側から見守っている男性の歌である。意中の人がばらに例えられるが、《タンホイザー》第3幕のエリーザベトとヴォルフラムと言ったところか。シューマンはそこに、後期作品に特徴的な静かな諦観と憂いに満ちた音楽を付けている。緩慢なテンポが、午後のけだるい雰囲気を描写。声とピアノのアラベスクは、微笑とも涙ともつかない、そこはかとない悲しみを湛えている。「生き生きと蘇る」と歌う個所で、一瞬力を取り戻すが、すProfile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。ぐに第1節に戻り、曲はうなだれた花のメランコリーのなかで終息する。 筆者が初めてばらの花束を買ったのは、〈私のばら〉を知ってからずっと後のことだった。最初に聴いた時も、うなだれたばらのイメージ、シューマンがそこに自己投影している姿(隠喩)に感動したが、作品の真の美しさを理解したのは、自分でばらを萎れさせてしまった時だった。ちょっと陽に当たっただけなのに、こんなに弱ってしまうとは! しかしこの哀れな花を、何とか救ってあげたい!……ところが我々にできるのは、せいぜい水を張って、自ら息を吹き返すのを待つことだけなのである。じっと苦しむばらの悲しさ、それを生き返らせたいという願い=無力感は、実際に体験してみて初めて分かった。そして花や命が秘める儚さを、まさにその通りの体感的リアリティで表現する作品の奥深さに動かされた。シューマンの音楽には、自然と(それが呼び起こす)我々の心理が、克明に書き込まれている。 詩から言えば、明らかに男性の歌ではあるものの、実際の演奏では、女性が歌った時の方がより美しく感じられる。なかでもクリスティーネ・シェーファー(ハイペリオン)とルート・ツィーザク(ソニー)が傑出しているが、彼女たちの細く繊細な声が、傷つきやすいばらのイメージに合致しているからかもしれない。城所孝吉 No.50連載

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