101とが、「生け贄を捧げる」という異常な状況と呼応して、作品に生命を吹き込んでいた。しかし今回は砂浜なので、踏みならす衝撃は吸収され、大地からの返りもなく、踊る場に力が満ちてこない点が残念だった。 だが、もっと重要な問題がある。 それは「アフリカのダンサーの魅力を世界へ伝えるのに、ヨーロッパの名作を踊らせるのはベストな選択なのか」ということだ。 もちろん良い作品は、どの国の人が踊ってもいい。「ヨーロッパにはないアフリカ的な作品だけを踊れ」というオリエンタリズム的なことを言いたいわけでもない。 ただ今回は「アフリカのダンサーを、ヨーロッパのパッケージに入れて流通させようとしている」ように見えてしまう。「ヨーロッパがアフリカを導く構図」は、アフリカのダンスのためになるだろうか。『スートラ』でのシェルカウイは中国の僧侶たちとわかり合おうとし、わかりあえない部分もきちんと描き、最後はじっと膝を抱えて座って彼らを見守っていた。誠実な態度だと思う。 今回はアフリカ14ヵ国から38名のダンサーたちが選ばれているが、アフリカにはそれだけの国と地域にダンスの萌芽がすでにあるということだろう。コンテンポラリー・ダンスは、自分が生きている「いまここ」のリアルをえぐり出すものだったはずだ。少なくともオレは砂浜で美しく踊る彼らから、それを感じることはできなかったのである。第71回 「アフリカのダンサーが『春の祭典』を踊るとき」 コロナ禍で様々な趣向を凝らした映像配信が行われているなか、ドイツ表現主義舞踊の巨匠ピナ・バウシュの代表作『春の祭典』をアフリカのダンサーたちが踊る配信『Dancing at Dusk』が注目を集めた。予定されていた世界ツアーが中止になり、セネガルの砂浜で踊る様を有料配信したものだ。 すでに本連載でも述べた通り、アフリカは次のダンスの鉱脈と目されている。しかも制作はロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場。ここは若いアーティストを積極的に発掘・支援し、作品プロデュースを手がけて世界ツアーまで組む「作って売る劇場」である。過去にはベルギーの振付家シディ・ラルビ・シェルカウイに中国・少林寺の僧侶へ振り付けさせた『スートラ』を大ヒットさせており、ヨーロッパ以外のアーティストにも積極的である。今回も目の付け所がさすがだ。 魅力あるダンサーたちが暮れゆく海辺で踊る姿は無条件に美しい。肝心の群舞は一体感を感じさせる密度にまだ至っていないが、これはツアーを重ねるうちに仕上げていくつもりだったのだろう。振付風景を撮ったメイキング映像もあり、スタッフとダンサーたちとの温かい交流も見られる。良い映像作品だ。 が、色々考えざるを得ない点もある。 『春の祭典』の初演は1913年、ストラヴィンスキーの曲に天才ダンサーのニジンスキーが振り付けたもの。春の祭りで神に生け贄の乙女を捧げるロシアの民話に基づいている。 ピナ版は1975年。彼女の初期の傑作で、劇場の舞台に2トンの土を敷き詰め、その上で踊らせた。男女で踊る集団の中から生け贄の乙女が選び出される残酷さが胸に迫る。叩きつけるような曲の強さと、大地を踏みならすダンサーたちが、この作品に生命力を与える。 ピナが劇場内に作った「大地」は作り物だが、劇場という人工物の中に「異質な自然」を持ち込むこProleのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com乗越たかお
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