154マーラー好きの方はぜひ南チロルへ 筆者がよく休暇で行く先に、南チロルがある。これはオーストリアとイタリアの国境、ブレンナー峠の南側のことで、現在はイタリア領だが、歴史的、文化的にはオーストリアだったところ。チロルというと、オーストリアという印象があるが、峠の北側と南側が一緒になった全体がチロルだったわけである。それゆえ人々は、ドイツ語を母語とする。これは現在でもそうで、人口の70パーセントがドイツ語を話すという。中心都市のボルツァーノも、地元ではボーツェンとドイツ語の名称で呼ばれる。 音楽の世界では、マーラーとゆかりの深い場所である。彼は晩年、毎年ブレンナー峠から南東に位置するトープラッハという場所で夏休みを送った。喧騒から逃れて作曲に集中するためだが、今でも宿となった農家の隣に、彼の作曲小屋が残されている(もっとも現在では、飼っているヤギ等の動物が常に鳴いていて、集中できないが)。マーラーがここを選んだのは、ウィーンから(グラーツ、クラーゲンフルト経由で)鉄道が通っていて、便利だったからだろう。ちなみにこの路線は、ボーツェンから先のメラーン(メラーノ)までつながっている。メラーンは、ハプスブルク家のチロル伯が住み、19世紀には皇妃エリーザベトが訪れるなど、リッチな保養地として栄えた。そうした政治的、商業的な理由から、いち早く鉄道が敷かれたのだろう。 南チロルは、マーラーの時代にはまだオーストリア領だったが、第一次世界大戦の終了とともにイタリアに割譲され、現在に至っている。これは「未回Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。収のイタリア」として知られる問題で、当時イタリア側は、ブレンナー峠以南はすべて自国であると主張していた。実際、ウィーンを舞台とした《ばらの騎士》がミラノ・スカラ座で伊初演されると(1911年3月)、会場で反オーストリアのパンフレットが撒かれ、険悪な雰囲気になったという。これに対し、今日の南チロルでは、オーストリアへの再併合を望む声が存在する。これは南チロルの経済状況が、他のイタリア各地と比べると圧倒的に良く、「民族自決」の機運があるからだろう。 とはいうものの、筆者自身が好んで南チロルに行くのは、ドロミテ・アルプスの圧倒的な山並みとともに、ドイツ・イタリアの両文化が混交しているためである。人々が解放的で食べ物(ワイン!)が美味しく、人生を謳歌する雰囲気がある。イタリアなのに、中身はドイツ文化圏という「ズレ」もいい。そしてあの山並みには、マーラーの壮大なシンフォニーが実によく合う。普通の欧州ルートに飽きた方に、ぜひ訪れていただきたい場所である。城所孝吉 No.43連載お知らせ:1月号の当連載において、著作権法に関する記述内容に誤りがありました。著作権法においては、一度保護が切れた著作物等については、その保護を後になって復活させるという措置は採らないという原則があるため、改正法の施行日である2018年12月30日の前日において著作権等が消滅していない著作物等についてのみ保護期間が延長されています。R.シュトラウスの著作権は1999年に消滅していますので、改正法の適用は受けないことになります。お詫びして訂正いたします。(編集部)
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