eぶらあぼ 2019.12月号
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180かつての名イゾルデと街中で遭遇するの巻 ベルリンには、たくさんのアーティストが住んでいる。そのため、彼らに路上で出くわすことも多いが、今回はそのようなシチュエーションから、特に印象的だった一件をご紹介しよう。というのはそこで、彼らの「オン」と「オフ」のあり方が、垣間見られたように思うからである。 時は数年前の聖土曜日、場所は近所のカールシュタット(庶民向けのデパート)である。その食料品売場で復活祭前の買い出しをしていると、あの名プリマドンナにそっくりな人が立っている。ワーグナーで鳴らしたトップクラスの、いやそれ以上の「世紀の名歌手」である。年齢は50代後半、あるいは60歳くらいだろうか。でも、確信はなかった。齢相応に綺麗ではあるが、派手な服を着ているわけではないし、そもそも全然オペラ歌手らしくない。その種のオーラが、まったく出ていないのである。むしろ普通のオバサン(失礼!)で、地味な印象だった。 彼女は、チーズ売場で売り子におすすめを聞いたり、ワインを手に取って眺めたりと、ごく普通に買い物を楽しんでいた。しばらく観察していたが、あまりに気になるので、一緒にいた相棒に肘鉄をして聞いた。「あの人、そうだよね」「うん、僕もそう思ったけど、全然らしくない」「いや、でも似すぎだよ」「そうかなぁ」…このように問答を続けていたが、彼女は筆者にとっては、学生時代にバイロイトやベルリンで繰り返し聴いた「我らがプリマドンナ」である。普通ならこういうことはしないが(ストーカーじみている!)、本物かどうか好奇心もあり、ふたりで声を掛けることにした。 …そして彼女に近づき、勇気を振り絞って「○○さんですか」と名前を呼んだ瞬間である。「ヤー?」と振り返った彼女は、まさにあの大歌手に変貌してProfile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。いた。表情は溌剌とし、瞳は光り輝き、何よりも全身から絶大なオーラが出ている。それまでの初老の女性は瞬時にして消え去り、燦然たるプリマドンナが我々の前に立っていた。 つまり彼女は、「気」を落としていたのである。彼女に限らずスターたちは、おそらく自分のオーラを(スイッチを切り替えるように)コントロールすることができる。一日中出していたら身が持たないし、プライベートでは他人に気付かれたくない。当たり前だが、「素顔の自分」でいたい時があるのだ。筆者も、それは頭では分かっている。しかし一流のアーティストで、実際にこれほどの差があるとは思ってもみなかった。 事の顛末だが、我々はただ声を掛けるだけでは奇妙なので、直前に市場で買ったチューリップの花束を彼女にプレゼントすることにした。本人は「それはありがとう!」と素直に受け取ってくれたが、我々は「お礼を言いたいのはこちらの方ですよ」と言葉を添えた。筆者の――そして数え切れないオペラファンたちの――人生を豊かにしてくれたのは、彼女だからである。短い出会いの後、彼女がすぐに「スイッチを切った」かは、後ろ姿からは分からなかった。城所孝吉 No.41連載

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