eぶらあぼ 2019.11月号
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173批評で大切にしていること 前回、CDの批評を書くことは(筆者にとって)演奏会のそれよりも難しい、という話をしたが、本稿では、そもそも批評を書く上で何が難しいのか、という点について説明したい。 端的に言えば、それは主観と客観の折り合いをどうつけるか、ということである。ある演奏について、好き嫌いを言うのは簡単だ。それは主観的な好みの問題で、もちろん悪いことではない。好きなように音楽を聴くのは聴き手の権利であり自由だろう。しかし批評家の立場は若干違っている。少なくとも自分の好みを書くわけではない。演奏の何が良くて何が悪いのかを、客観的かつ論理的に読者に説明し、判断を下さなければならないのである。つまり理由付けが必要。文章には説得力と普遍性が求められる。 なぜそうかというと、責任があるからである。根拠のない、いい加減なことを書いてはいけない。CDの場合ならば、音楽家、レコード会社、そして購入者は、収録される内容に価値を見出しているからこそ収録し、商品を作り、買うのである。それを気分で貶すのは、彼らの芸術的・経済的努力、労働力、関心を、リスペクトしないことになる。だから批評家も、できるだけ公正で、演奏に叶う批評をしなければならない。 そのため筆者は、自分の意見に客観性があるかを、できるだけチェックするようにしている。演奏にオープンな気持ちで耳を傾けるのは当然で、音楽家が何を表現したかったのかを、知性・感性を総動員して聴き取るよう努める。実際の文章では演奏の性格を描写するが、独りよがりにならないように、演奏される状況や作品そのものの背景、また他の解釈とどう違っているかを援用し、自分の意見に根拠を付けるのである。 その一方で、客観的な批評などというものは存Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。在しない。批評自体が、書き手がどう思うかということ、つまりその人の主観が問われる分野なのである。できる限り客観的に聴いたものを、最終的にどう判断するかが核心。でなければ、プレスリリースのように情報だけを横流しにすればいいことになる(あるいは、縦線や音程がずれている等の「客観的に動かしようのない事実」だけをあげつらえばいいことになる)。しかし読者が読みたいのは、批評家が何をもって何を良しとするのか(あるいは悪しとするのか)という特定の見解であり判断なのである。 そこで筆者がつくづく思うのは、「自分の意見を持ち、それを文字にするのは、何と難しいのか」ということ。意見のない文章は、言いたいことのない演奏と同じくらい無味乾燥で、面白くない。文章を書くこと自体がメッセージなのだから、批評は明快で説得力のある見解を伴うべきである。しかしある演奏を聴いて、すぐに理路整然とした意見が頭に浮かぶわけではない(特に、何が言いたいのかよく分からない演奏の場合は!)。アプローチはむしろ逆で、まず漠然とした印象があり、自分がなぜそう感じるのかを後から理論化=言語化してゆく。その際、批評家とて人の子、自分の意見に絶対の自信があるわけではないのである。難しさは結局、他人に胸を張って言える意見を持てるか、ということに尽きる。城所孝吉 No.40連載

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