eぶらあぼ 2019.10月号
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204CD評論は楽じゃない 筆者は某レコード誌でCD評を担当している。その雑誌は「月評」が雑誌の中核なので、身に余る大役なのだが、毎月つくづく難しいと頭を悩ませている。読者は、批評家は演奏について上から意見を言う立場で、お気楽なものだと思うかもしれない。しかし実際に携わっている側から言わせてもらうと、いい加減なことが書けないので、非常に気を使う仕事なのである。CDの場合、読者が同じ演奏を聴いて自分の判断を下せるため、なおさらだ。 というのは、批評家とて人の子、自分の判断力に絶対の自信があるわけではないからである。筆者は演奏会では、自分の意見を確立するために、それほど苦労はしない。というのは、情報量が圧倒的に違うからである。演奏上のミスや合奏の乱れ、響きの精度といった聴覚的現象がより聴き取れるだけでなく、指揮者とオーケストラの関係(オケがちゃんと言うことを聞いているか)、聴衆の反応(演奏がつまらないと飽きて集中力がなくなる)等、その場の雰囲気が感得できる。指揮者やソリストにテクニックがあるかも、視覚が伴うので分かりやすい。 これに対してCDでは、情報が音だけに限られている。しかもその音自体が、録音というプロセスを通して「作り上げられた」ものである。それは、実演での音とは似て非なりで、「演奏を特定条件のもとに切り取ったもの」と理解する方が当たっている。しかも大抵の場合、編集が施されている。つまり、風景をカメラを使って撮影し、さらに色調調整を行うようなものである。風景は、裸眼で見れば眼前にバーッと広がっているが、ファインダーを通すとずっと小さく見える。録音も、演奏の全体像を限定的なProfile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。フレームで切り取ったようなところがあり、相対的に分かりにくいのである(もちろん、分かりやすくなるように録音技師がミックスを工夫した例もあるが)。 聴く環境も、演奏会とCDでは大きな隔たりがある。コンサートの場合、観客は音楽を聴くためだけにホールに集まり、(聴覚的にも視覚的にも)演奏に集中するが、CDの場合、音楽のみに集中することは難しい。ヘッドフォンを使わない限り、雑音に紛らわされるし、視覚的にも妨害要素がある(目をつぶるのならば別だが)。そもそも70分間スピーカーの前に座って音楽に集中する、ということ自体が難儀だろう。 筆者は、CD評を書く場合には、集中できるように暗い場所でヘッドフォンを使って聴くようにしている。しかし、そのような禁欲的な環境でCDを聴く音楽ファンは少ないだろう。もちろん、そこまでしなくても演奏は楽しめるし、質の差も分かるが、レコード評論家は、それについて明確な判断を下さなければならない。そしてその判断には、様々な責任が伴う。これが評論家と一般ファンの違いだが、続きはまた次号で。城所孝吉 No.39連載

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