eぶらあぼ 2019.5月号
174/199

171ブレグジットと音楽家 イギリスのEUからの脱退「ブレグジット」は、音楽界でも大きなテーマである。というのは、欧州で活躍する英国人音楽家は、脱退後、ドイツやフランスで演奏するために、毎回就労ビザを取得しなければならないからだ。 EUでは音楽家に限らず、圏内の各国市民が、別のEU圏内の国に住んでも、滞在ビザは要らない。そこに住もうと思えば、原則的に何年でも無条件に住める。働く場合も、特に就労ビザは必要なく、フランス人がドイツに住んで仕事をするためには、滞在権や就労権の取得は要らないのである。 これは国際的に活躍する音楽家にとっては、非常にありがたい制度だ。というのは、指揮者やソリスト等、EU圏内の移動が多い人は、どこにでも無条件に客演できるからである。ベルリンに住むドイツ人歌手が、今晩、ミラノ・スカラ座で歌ってほしいと頼まれても、飛行機で飛べばいいだけ。アメリカ人歌手ならば、大使館や領事館に行ってビザを発行してもらうように掛け合うところだが、EU市民にはそのストレスがないのである。 ところがブレグジットが実行されると、英国人音楽家が他のEU諸国で演奏する場合、いちいち就労ビザが必要になる。これは、行き来が多い人には、本当に笑えない話である。ある英国人歌手がBBCに語ったところでは、彼はオーストリアに住んで22年になり、家族もいるが、ブレグジットが現実になると、イギリス国籍を捨ててオーストリア国籍を取得しなければならなくなるという。もちろん劇場の専属歌手等ならば、契約期間全体にビザが出るだろうが、フリーのソリストの場合、出演ごとにビザを申請するのは煩雑である。もちろん、他のEU諸国の音楽Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。家がイギリスに客演する場合も同様で、それも面倒には違いないが、不利をこうむるのは主に英国人になるだろう。 もっともEU体制以前には、こうした就労ビザの必要性は、ヨーロッパ全体であり、当たり前のことだった。そう考えれば、大問題でないように思えるかもしれない。しかし現実には、30年前に比べてイギリスと大陸間の通商や人の往来は多くなっている。要するに当時は、就労ビザの発行数そのものが少なかったのである。逆に言うと、今後、EU圏内で仕事をするイギリス人が、大挙して各国大使館・領事館を訪れ、事務がパンクすることも考えられる。反対に、ドイツなどの英国大使館・領事館も、イギリスで働く人でごった返すだろう。 焦点は、それによってEU各国の劇場等でイギリス人音楽家の雇用(英国の劇場等でEU圏音楽家の雇用)が減るかということだが、一流レベルでは変化はないと思われる。サイモン・ラトルがこの件でベルリン・フィルから呼ばれない、ということはあり得ない。問題は、必ずしもその人でなくてもよいクラスの音楽家であり、「ビザが面倒ならばEU圏の人を採用しよう」ということは大いに考えられる。城所孝吉 No.34連載

元のページ  ../index.html#174

このブックを見る