eぶらあぼ 2018.11月号
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191通点があり、ともにエルスール財団新人賞のコンテンポラリー・ダンス部門と現代詩部門の第4回受賞者なのである。エルスール財団は「詩とダンスのための」と謳っている珍しい財団で、コンテンポラリー・ダンス部門の審査員はオレが拝命している(現代詩部門は野村喜和夫、フラメンコ部門は野村眞里子両氏)。いつか受賞者を集めた公演ができたらいいね、と始まった賞だが、コンテンポラリー・ダンスでは初。タイトルの『泥中の蓮の花』は、小津安二郎の言葉からのインスピレーションだそう(戦後の混乱期にも安穏な家族像を描き続けて批判された小津が「私は美しい蓮の花を描くことで、その下にある泥を描く」という主旨の反論をした)。 会場はエルスール財団記念館。詩やダンスの資料スペースにカフェも併設されており、こじんまりして洋館のような佇まいである。彼らは一階と二階を移動してまわり、客は後を歩きながら見る趣向だ。意外だったのは、カニエが童顔の詩人にあるまじき筋肉を兼ね備えていることで(昔ちょっとダンスをやっていたらしい)、かえるPの二人とけっこうガチにぶつかり合っていた。 カニエはかえるPの二人にも朗読させた。とくに橋本は、何枚も貼り合わせた大きな模造紙一面に書かれた文字を読みながら、紙にくるまれ、詩に呑み込まれていった。 詩とダンスは対立のみならず、ときに溶け合い、混ざり合う。幸福な作品だった。第49回 「詩とダンス」…遠くもあり、近くもあり、何でもあり。 テキスト(言葉)とダンスの関係は微妙である。言葉は「意味」があるぶん、強い。ヘタをすればダンスは、単に言葉を動きに置き換えただけの退屈極まりないものになってしまう。意味の「わかりやすさ」に寄りかかってしまっては、ダンスの負けなのだ。そのためダンスの舞台で言葉を使うときには、ノイズを混ぜるなど、声をただの「音」として扱うことも多い。 しかし詩なら? 散文的な説明ではなく、意味やイメージの飛躍があり、韻など音楽的な楽しみもある。ニューヨークなどでは毎晩街のどこかで詩の朗読とダンスが一緒に演じる上演があり、両者の相性は存外にいいのだ。 日本にももちろんある。が、筆者が強烈に覚えているのが、実に武蔵大学の学園祭なのである。2000年代初頭に詩の朗読とダンスをガチンコでぶつける良企画をやっていたのだ。とにかく出演者がとんでもなくて、詩人では吉増剛造、ねじめ正一、平田俊子、小池昌代、島田雅彦、片岡直子、林浩平、ダンサーは大野一雄、笠井叡、麿赤兒、室伏鴻、伊藤キム、井手茂太、川口ゆい、上村なおかという、気鋭から大御所まで恐るべきメンバーがそろっていた。舞踏の大御所・大野一雄にいたっては90歳を超えていたし、舞台袖まで車椅子で来ていたくらいである。 大体は詩人が朗読し、その周りでダンサーが即興で踊る、というパターンだったが、島田雅彦と伊藤キムは出色だった。伊藤は踊りながら島田の朗読の邪魔をしまくったのである。島田に振り払われてもニヤニヤしながら原稿を揺すったり、しまいに島田を持ち上げたりする悪ガキの所業。たまりかねた島田が「やめろ!」と怒鳴ったほど。二人のアーティストが舞台上にいる以上、当然こういうこともあるよな。 まあこういう“対決”も面白いのだが、先日、詩とダンスに不思議な一体感のある公演があった。かえるP(大園康司、橋本規靖)のダンス、カニエ・ナハはこのために作った新作詩を朗読した。両者には共Proleのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com/乗越たかお
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