eぶらあぼ 2018.10月号
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これは今の神奈川フィルでしか聴けないプログラムです。取材・文:柴田克彦 写真:武藤 章 指揮界の俊英・川瀬賢太郎は、2014年神奈川フィルの常任指揮者に就任し、今年5年目のシーズンを迎えている。 「この4年で、優秀な若い奏者がどんどん入り、音楽のボキャブラリーも増えてきました。ポジティブな意味で言うのですが、自信をもって次の指揮者にお渡しできるところまで来ています。今の神奈川フィルは、とにかく上手なオーケストラで、一度は聴いてみる価値があります。土曜の午後の定期演奏会は在京オケと重なることも多いのですが、私たちは神奈川フィルでしか聴けないプログラミングを心がけています。それは奇抜なものではなく、名曲と何を組み合わせるか、作品同士がどう影響を及ぼし合うかを大事にするということ。10月定期のプログラムはその好例です」 10月定期は、権代敦彦の「子守歌」とマーラーの交響曲第4番の組み合わせ。 「通常はマーラーの4番がお目当てで、その前に日本の現代作品があるのか…と捉えられるでしょうけど、まず権代さんの作品を決め、それに合う曲としてマーラーを選びました」 「子守歌」は、01年大阪府池田市における児童殺傷事件で亡くなった少女の母親の手記をテクストにした、メゾソプラノ、ピアノ、児童合唱とオーケストラのための作品。 「常任指揮者になった当初から取り上げたいと言い続けた作品です。私は2013年の権代さんの個展で聴いて、度肝を抜かれましたし、自分がまさかコンサートで涙が止まらないような体験をするとは思ってもみませんでした。そこでぜひ取り組みたいと考え、ポストを持っている名古屋フィルで2015年に演奏しました。そして次は神奈川フィルだと。私はこの曲をやる義務を感じていますし、ポストのあるオケでのみ、最大限の責任感をもって披露する演目です」 川瀬はあえて「泣けるといった先入観を持たないで聴いてほしい」と言う。 「物事は風化するものです。しかし演奏会で取り上げることによって、その時だけでも蘇らせることができます。それを聴いた方が、日常、家族、社会、未来などに対して何を感じるか…それぞれ受け取り方が違っていいのです。ただひとつメッセージを言うとしたら、悲惨な事件が絶えない今、演奏しないといけない作品であるということ。ご遺族の心境を思うと難しい面もありますが、前回の上演後、ご遺族の方に『ありがとうございます』と言われたことがとても大きく、責任感をもって取り組まねばと改めて思いました」 その後にマーラーの交響曲第4番を演奏する意味も大きい。 「第4楽章で“天上の世界”が歌われますので、権代さんの作品と関連づけたいと思いました。ただ第2楽章はグロテスクな踊りですし、世の中は清濁が表裏一体であることを表す人間臭い交響曲でもあります。それに権代さんの作品に心打たれた後では、今までと全く違う聴こえ方がすると思います。これは、音楽を通じて、過去を振り返り、今を生きることを考え、それが未来に繋がるという、現代のコンサートのひとつの在り方の提示にもなるのではないでしょうか。4番自体は、マーラーの交響曲の中で1番コンパクト。しかし構成は非常に複雑で、あらゆる感情が含まれており、私はハイドンに通じるユーモアも感じます。そして現実的な第1楽章、グロテスクな第2楽章から、この世で最も美しいとさえ思われる第3楽章を経て、第4楽章の天上の世界に行く。生々しいものから徐々に浄化される流れに、生と死が常に隣り合わせにあったマーラーの感覚がよく表れています」 2曲のソリストも万全の態勢だ。 「権代さんの曲の独唱の波多野睦美さんは、個展のときのソリストで、優しい声質が作品に合っていますし、ピアノの野田清隆さんは、名フィルのときの演奏が凄かったので、迷いなくお願いしました。2群に分かれて様々な部分を歌う児童合唱は、CDを聴いて上手いと感じた横須賀芸術劇場少年少女合唱団、そしてマーラーのソプラノは、柔らかな声質が天上の世界に相応しい市原愛さんが歌います」 「在任中にマーラーの交響曲第8番をぜひやりたい」とも語る若きマエストロ。「神奈川フィルの定期演奏会でこそ」の本プログラムを、音楽ファンはこぞって体験したい。Prole1984年東京生まれ。2007年東京音楽大学音楽学部音楽学科作曲指揮専攻(指揮)を卒業。指揮を広上淳一氏等に師事。06年東京国際音楽コンクール<指揮>において1位なしの2位(最高位)に入賞。神奈川フィル常任指揮者、名古屋フィル指揮者。八王子ユースオーケストラ音楽監督。三重県いなべ市親善大使。「渡邉曉雄音楽基金」音楽賞、第64回神奈川文化賞未来賞、第14回齋藤秀雄メモリアル基金賞、第26回「出光音楽賞」、横浜文化賞文化・芸術奨励賞を受賞。東京音楽大学作曲指揮専攻(指揮)特任講師。18年9月よりオーケストラ・アンサンブル金沢常任客演指揮者に就任。

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