eぶらあぼ 2018.5月号
202/209

213作品からも明確な物語は消えて、日常を生きて生活しているパフォーマーの身体そのものを晒す作品も増えてくる。となると舞台用の、突飛なデザインの衣裳はそぐわない。うわあ何やる気出してんのオマエ?という感じになるからね(もっとも舞台上という非日常空間で日常感を出すには、それはそれでプロの衣裳デザイナーの視線は必要なのだが)。 コンテンポラリー・ダンスの基本は、あらゆる従来の価値観を疑うことだ。「あたりまえ」とされていたことに「本当か?」と疑問を投げかける。「ダンスは身体を動かすもの」本当か? 「照明は身体を見やすく照らすもの」本当か? 「音楽は動きと一体化するもの」本当か? これらは全て覆された。では衣裳は? 「衣裳は動きの邪魔をせず、動きの魅力を高めるもの」本当にそうだろうか? 中には、足ヒレのような靴でぺたんぺたんと歩かせたり(フィリップ・ドゥクフレ『コデックス』)、直径3メートルもあるようなビニールのスカートをはかせたり(森山開次『不思議の国のアリス』)、「あえて動きにくい衣裳」にするものもあるのだ。これは身体に負荷をかけ、それに抗う動きそのものがダンスであり、過剰な衣裳によってダンスを生み出そうという狙い/振付なのである。 さらには「裸体は衣裳に入りますか?」問題もあり、欧米には「全裸がデフォルト」という振付家もいるのだが、それはまた次の機会に。第43回 「衣裳の変わり目は、ダンスの変わり目なのである」 今回は「舞台に欠かせぬものなのに、意外に語られることの少ないもの」……衣裳について考えてみたい。 ダンス公演の衣裳というとどんなものを思い浮かべるだろうか。全員で統一感のある、キラキラしてヒラヒラのついたもの? お揃いのレオタード? あるいはキッチリと役に応じたもの? しかし昨今のコンテンポラリー・ダンスでいうと、「わざわざこのためにデザインしましたー」という衣裳は結構少ない。ほとんど普段着。いやキミちょっとそれ練習着じゃ? というものも多々ありますしね。だが実はこれ、ダンススタイルの変遷をしっかり反映した結果なのだ。 いうまでもなくバレエに明確な衣裳があるのは、物語に合わせて明確な役があるからだ。それはモダンダンスでもそうなのだが、こちらは役割といっても火とか大地とかいう場合もあるし、特に群舞は「動く背景」のような役割も多く、抽象度が高い。こうなると個人の見栄えよりも集団でどう見えるかに重点が置かれるので、お揃いの、照明映えするキラキラヒラヒラの衣裳が増えるのだ。 これがポストモダンダンスでは「物語などいらん。ダンスは動きだけで語るべきだ」となり、抽象化がさらに進む。身体は動く記号であり、背景としての役割すら剥ぎ取られ、極限まで単純化される。お姫様・王子様はおろか男女の性差もなくなり、舞台上では同等に扱われた。本来練習着だったレオタードで踊るようになったのはこの頃である。もっともレオタードは身体のラインを明瞭に見せるという利点もあり、ショービジネスでも重宝され、カラフルになって、これはこれでステージ衣裳として進化していった。 しかしコンテンポラリー・ダンスになると、大事なのは、代えのきかない存在である個人そのものだ。Proleのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com乗越たかお

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