eぶらあぼ 2018.5月号
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198ブーイングについて(後編):ブーは正当なのか? 前号では、ブーイングの質が変わってきているという話をしたが、今号では、そもそもブーをすることはいいことなのか、ということについて考えてみたい。 もちろん人に罵声を浴びせることなので、「いいこと」だとは言えないし、なしで済むならばそれが一番だ。ブーを叫ぶ人々は、ブラボーを叫ぶ人々でもあり、彼らが上演でどちらを望んでいるかは言うまでもない。しかし筆者は、ブー(とブラボー)がなかったら、劇場は全然面白くなくなってしまうと思う。 なぜなら、劇場とは本質的にエモーショナルかつ挑発的な場所だからだ。お客さんは舞台を観て、高度に感情的な経験をする。それへの反応が感情的であるのは、当たり前であるだけでなく、劇場というものの本質的な一部なのである。ブーイングは、上演の質や出来が良くても悪くても起こりうる。人々は、失敗した演出や演奏に対してだけでなく、革新的なそれに対しても叫ぶからである。『春の祭典』の初演が「座布団が飛ぶような」大騒ぎだった、という話はよく知られているが、それは作品が新しすぎて聴衆が理解できず、挑発と受け取ったためである。しかし本当に新しいものは、我々の心をまぎれもなくかき乱す。もし100年前にパリで『春の祭典』の初演を体験して、何の感情も覚えなかったら、その人の心は凍っているとしか言いようがない。ブーは、作品の革新性、ラディカルさを指し示す勲章でもありうるのだ。 何年か前、独墺の一流歌劇場・音楽祭のインテンダントを歴任したある有名演出家が、「ブーは平手打ちだ。気に入らなければ拍手しなければいい」と言っていた。筆者はその言葉を聞いて、「劇場の敗北宣言だ」と思った。演出家や劇場監督が熱狂的なProfile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。ブラボーだけしか受け付けず、聴衆が好まなかった場合には、お行儀よく拍手しないことを求めるなどというのは、ブーが勲章でありうること(=作品が革新的で、人々の心を揺さぶりうること)を、自ら否定しているようなものである。彼には、自分が作り出すものにそんなに芸術的確信がないのだろうか。 そして、もし舞台が革新的でなく、本当に悪かったのであれば、聴衆にはそれに判断を下す権利がある。これは古代ギリシャに遡る劇場の伝統だが、それがなければ、発言できるのは批評家だけで、お客さんにはできないことになってしまう。そもそも劇場は、我々が直接判断を示すことができるから生き生きとし、エキサイティングなのではないだろうか。ルネ・フレミングは、ドイツ留学時代に、ルート・ベルクハウスとミヒャエル・ギーレン政権下のフランクフルト・オペラ(当時、前衛演出の牙城だった)で、観客が演奏中に叫びだし、足音高く会場を立ち去るのを体験して、「たかがオペラに大の大人が興奮し、我を忘れてブーを叫ぶなんて、何と素晴らしいのだろう。ここではオペラは生きている!」と思ったという。まさにそれである。劇場は、聴衆が自ら上演に参加し、エモーショナルに関わってゆくから面白いのであり、それが本質的意義なのだ。城所孝吉 No.22連載

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