eぶらあぼ 2018.1月号
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171半前後という公演の長さは、絶対的なものなのだろうか? たとえばオペラで3時間などは普通だし、江戸時代の歌舞伎は、もともと日中6時間とか8時間とか平気でやっていた。照明が太陽光頼みだからで、観客も贔屓が出る幕だけを観に行ったりしたのだ。昭和になっても第二次大戦前の日本のショービジネスは、映画と実演(ショー)、歌や漫才など様々取り合わせて一日中やっているものだった。現在でもヨーロッパの演劇は、あえて長く夜通し上演している作品も少なくない。 その一方で、たとえばカナダのコンテンポラリー・ダンスを牽引してきたマリー・シュイナールは、若い頃、数分間の短い作品ばかりを作り続けて有名になった人である。そしてある時点から長い作品を作るようになり、今でも旺盛に続けている。今回出席していたNYのディレクターは「私は3分間作品だけのダンスフェスをやってるわよ」といっていた。もちろん初めから長い作品を作る人もいる。 つまり、作りたいときに作りたいものを作れば良い、ということだ。作る奴は黙ってても長いものを作るよ。もちろん「フェスティバルに招聘されやすい条件」はいくつかあるが、それはだいたい費用対効果の問題なんで(海外フェスティバルに8人も招いたのに15分しか踊らないの? みたいな)、とりあえずは自分の表現の核をつかむことが大事だ。そしてそれぞれの作家が、それぞれに居場所のあることが、フェスティバルの存在意義でもあるのだ。第39回 「『長いダンス』と『短いダンス』 どちらがエライか」 この原稿はソウルで書いている。SCF(ソウル国際振付フェス)の審査員をするためだ。ソウルに着いた早々、北朝鮮のミサイルが頭上を飛んでいったようだが、ダンスは続いていくのである。 秋から冬は取材が多い。ソウルの後はテルアビブだし、SCFに先立っては『踊る。秋田』国際ダンス・フェスティバルの土方巽記念賞コンペティションがあった。初開催にもかかわらず16ヵ国200を超える応募作があり、決勝に残った多くはすでに高い評価を得ているダンサー達である。習いごとの発表や審査会などとは違い、優れたコンペティションは、それ自体がフェスティバルになっているのだ。 さてソウルでは日本のダンスについての講演もしてきた。キーワードはフェスティバル。その意義の変遷と、「ダンサーが食える社会を作る」というオレのミッションに欠かせないアジアのネットワークにも直結している。 思いのほか盛り上がり、質問も活発に出た。そこで韓国の舞踊評論家が、「コンペティションに出す小作品しか作れない若手の振付家が増えているのでは?」と問うてきたのである。 これはオレも長年同意見だった。15分程度の作品ばかり作っていると、一時間物の作品を作ったとき、30分を超えたあたりでプツッと作品の集中力が途切れてしまうのだ。オレはそれを『ショーケース・シンドローム』と名付けて、警鐘を鳴らしてきた。 だが最近は少し違う考えを持つようになった。オレ自身からして、ネットで動画を見るとき、昔なら「一時間も見られる! ラッキー!」だったのに、いまでは2分間以上ある動画は面倒くさくてスキップしてしまうようになったからだ(資料映像はちゃんと見るよ)。 つまり観客のリアリティとは、時代とともに急速に変わっていく。現在スタンダードとされている1時間Proleのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com/乗越たかお
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