eぶらあぼ2017.8月号
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3333多重・多層的な『月に吠える』となるはずです取材・文:小沼純一 写真:吉田タカユキ 『月に吠える』をやりたい。勅使川原三郎はふとおもう。その後、萩原朔太郎のその詩集刊行から100年に、偶然、気づく。ひとつのシンクロニシティがおこっている。 「明治になった、外国文化が入ってきた、侍がいなくなった――江戸時代から明治時代の変化は革命期だったし、混乱期でもあった。それが一段落し、ヨーロッパでは第一次大戦が起こった時期が、(芸術的に)おもしろいと感じているのです。現代に通じるすごく大きなうねりの中で、芸術家たちがこれまでと違った作品をつくりだす。かたや世界情勢は不穏になってくる。病的で厭世的でありつつ、アイロニカルな視点というのか、芸術や文化といった領域では、人の歪んだ力がでてくる」 詩集『月に吠える』刊行の1917年、サティの《パラード》初演があり、翌年にはドビュッシーがこの世を去った。 「ことばのアイロニーが朔太郎にはあるのです。その人自身を投影してもいる。こうした姿勢はいまの時代にもっとあっていい。いま、ネガはネガ、ポジはポジ。日本語をカタカナにし記号化しているようで、ただ自分たちを枠にはめているだけ。でも、アイロニーの力というのがあるんじゃないか。それは身体的なものであり、地に落ちてまでよく見ようとする姿勢です」 『月に吠える』はいくつもの詩でできている「詩集」だ。 「どれかの詩を描写したりはしません。詩一篇ずつの解釈をしたいんじゃなくて、どうしてこの詩を書こうとしたのか、朔太郎はどういう人なんだろうか、そのときの精神はどういうものなんだろうか。それをできたらいいな、と。ただ朗読を入れようかとはおもっています」 音楽と呼ばない・呼べないような振動やノイズ。勅使川原作品にはこうした「音」が登場する。一方、既存のよく知られた音楽もまた。 「朔太郎は『懺悔』という言葉を使いますよね。誰もいないところだからこそ跪き、頭をたれたときに唯一聞こえてくるとしたら――その緊張感が音楽だとおもう。詩とか音楽がやんだとき、何が聞こえてくるのか。どうして悲しみとか絶望という言葉を大事にしたいのか――それは離したくないから、失いたくないから。絶望から離されたくないから。もし絶望がなくなってしまったら、なんて空しいんだろう。自分はなんとも頼りなく、麻痺してしまったら、きっと絶望も悲しみも感じないだろう、と。 朔太郎は、詩は文字で書ききれないと言っています。そこにある自分への皮肉めいた緊張感がすごくある。緩んでいる、軽やかにみえる、でも、同時に、語っていない部分の強烈な緊張感があったのではないか」 勅使川原のダンスにあっては佐東利穂子の存在も欠かせない。 「からだが華奢、というか、まるで神経だけがあるような細さ、薄さ。フィラメントと言うのですが、浮いているように軽く、でも、ひとたび電流がはしると強烈なものになる。存在の仕方だけが稀有だった」と師は評する。 もともとワークショップに参加していたが、大勢のワークショップ生が出演する公演を機に、次々にステージにあがることになった。 佐東利穂子自身のことばを引こう。 「技術のない身体だったので、基礎を教わりたいと、KARASのワークショップにたどりついたんです。基礎がない、と言うと、ほとんどのところでは、まずはバレエを学ぶべきだ、と言われてしまいました。でもKARASでは自分自身の身体をコントロールする方法をゼロから学べた。だから、何もなくて良かったな、といまはおもいますね」 今回の公演はほかのKARASの、また、外国のダンサーらもステージにあがる。 「イタリアとフランスから2人のダンサーが出演します。すでにほかのプロジェクトに参加していて、私のダンスメソッドを学んでいます。しかし各々とても個性的に体現し、グループとして違和感のない存在です。様々異なったキャリアのメンバーがそろい全体が『ポリフォニック』なものになります。さらに舞台美術・照明が加わって多重・多層的な『月に吠える』となるはずです」Information萩原朔太郎『月に吠える』刊行100年記念勅使川原三郎『月に吠える』8/24(木)19:30、8/25(金)19:308/26(土)16:00、8/27(日)16:00 東京芸術劇場 プレイハウス振付・美術・照明・衣装・選曲・出演:勅使川原三郎出演:佐東利穂子 鰐川枝里 マリア・キアラ・メツァトリ   パスカル・マーティ(イエテボリ・オペラ・ダンスカンパニー) 他問 KARAS 03-5858-8189 http://www.st-karas.com/

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