eぶらあぼ2017.7月号
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189欧州の音楽評論家のレベルは? 前号では欧州で新聞が文化政策に及ぼす影響について記したが、今回は批評家が書く音楽評論自体について考えてみたい。我々は、ヨーロッパの批評家の意見は、多少なりとも気になるものである。目利きの人ならば、ベルリンやパリ、ロンドンといった本場の評判をキャッチしたい、と思うだろう。 ところが筆者に言わせれば、現地の音楽批評のレベルは決して高くない。前号でも説明した通り、ジャーナリストの政治的な手腕は非常に優れている。エージェントや業界全般についての情報力もあり、記事を読むとこちらもたいへん勉強になる。しかし、音楽自体についての知識は比較的貧困だと感じる。率直に言って、日本の批評家や聴衆の方が、ずっと高水準だろう。 例えば日本人批評家が、ブルックナー「交響曲第8番」の演奏会やCDを評する場合、本人が作品を隅から隅まで知り尽くしていると考えて、まず間違いない。重要曲ならば、大抵の人がCDを聴き続け、様々な解釈の違いも含めて、水準以上の理解を持っているからである。同様のことは、聴衆にも当てはまる。日本のファンは、好きな曲ならば録音を聴いて究める、という人が多い。 ところがヨーロッパ、あるいはドイツの批評家は、そこまで作品を知らない。特にシンフォニーについての知識は、あまり高くないと考えられる(逆にオペラはよく知っている)。なぜそれが分かるかというと、彼らの文章に作品へのこだわりが感じられないからだ。ブルックナーの場合、版の問題が批評で話題になることは、まずない。本当に好きならば、「第8番はハース版でやってほしい」等の意見が出てくるProfile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』、『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。近年は、音楽関係のコーディネーター、パブリシストとしても活動。はずなのだが…。 なぜ作品理解が浅いかというと、彼らが原則的にライヴ志向だからである。チケットが高い日本と違い、ドイツなどでは比較的安価に一流の公演を聴くことができる(割引が受けられる学生ならば、なおさらだ)。それゆえ、録音をなめるように聴かなくても、十分に満足できる環境が整っているのである。特に批評家になるような人は、学生の頃からライヴを追いかけるので、CDを聴き込むステップが抜け落ちてしまう。また、現役音楽家に接する機会が多く、それが身近なため、フルトヴェングラー等の過去の巨匠たちの演奏が、相対的に意識されず、聴かれていない。結果的にあまり“勉強”しないまま、次に「第8番」をライヴで聴ける機会がやってきてしまうのである。 要するに彼らは、恵まれすぎなのだ。逆に言うと、日本の批評家やファンは、トップの演奏を聴くチャンスが(機会というよりは資金的に)限られるので、せっせとCDを聴いて知識を増やす。その意味で我々の理解水準は、環境が生んだ「逆説的豊かさ」と呼ぶべきかもしれない。いずれにしても、ヨーロッパの批評家が書くこと、とりわけ演奏の評価については、我々が特にありがたがる必要はないように思う。城所孝吉 No.12連載

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