eぶらあぼ2017.5月号
170/193

183描いて回るときも右回りがスムーズにできる。左回りは無理して抗っているような動きになる。だから辛さや悲しさなどネガティブな感情を表現するときには、あえて左回りにするといい」。おお、ちゃんと伝統舞踊っぽいところに着地しているなあ。 振付の方法は国により個人により様々だが、とかく「動きやステップを教え・覚えるもの」と思われがちである。まあ間違ってはいない。大勢の出演者を動かす必要のある発表会やマスゲームのような振付は、それなりの需要もあるし楽しいものもある。「白痴的な元気さ」ばかりがグイグイ押し出されることもあるけど。 こういう人は、おそらく振付を手足の動きの組み合わせでしか考えていない。形の決まったパーツを組み上げていくオモチャのレゴで作った彫像のようなもので、近くで見ればガタガタになっている。 手の長さを関節単位で感じるか、ミリ単位で自分の身体を認識しているかで、動きは全く違ってくる。これは精神論ではなくて、あきらかに自分の身体への認知の細やかさは、動きの差となって現れるのである。ダンスを形で捉えるのではなく、身体とは何かという考察の結果がダンスになるからだ。 振付家自身が認識している身体像より以上に、動きが細密化されることはない。それは身体の奥底に眠る可能性へのアクセスの深さと比例している。だから本当に優れた振付とダンサーは、シンプルに見える動きでも見飽きることなく観客の心を掴むのである。第31回 「身体の密度が振付に出る。あと内臓とか」 なんと前回は記念すべき30回目だった! こんな素晴らしい媒体で続けさせていただき感謝している。これからもダンスの楽しみ方、その魅力を伝えて行く所存ではあるが、今回は最近面白く、ちょっと考えさせられた山下残『悪霊への道』について語ろう。 山下がバリに6週間滞在してバリ舞踊を修行してきた成果として作品にまとめたものだ。この手のものは「いろいろ学んで、こんなものを身につけました」という、助成金を無駄にしてないことを示すアリバイ的な、毒にも薬にもならない作品がしばしばある。 しかしこれはひと味違った。舞台上には横に長い布が2段に張られており、幕の向こうにははっきり見えないがバリから来たホンモノのお師匠さんがいる。山下は布の前で「師匠」の指導を受けながら動いているのだが(翻訳されたテキストが布に投影される)、有り体に言って、できてない。前々回「伝統に絶望すること」の大切さを書いたが、子どもの頃から気の遠くなるような修練で身につけた伝統舞踊を、6週間でできるわけがない。山下は山下のまま。しかしだ。クリエイションの途中経過を見せるワーク・イン・プログレスにしても、「ここまでできました」ではなく、「できてない」ことを作品として成り立たせる手法には軽く戦慄を覚えた。勇気あるなあ。 さらに作品中で開陳されるバリ舞踊の「師匠」の言葉が、実に面白かったのだ。 ガニ股で重心を落として移動するときに「身体の中を意識しろ」と「師匠」はいう。エネルギーの流れがどうとか言うのかと思ったら、「手足と違い、人間の内臓は左右対称ではない。たとえば肝臓は右に大きく飛び出す形で存在するので、人間の身体は右側が重くなっている」というのだ。伝統舞踊の教えにしては、えらく近代解剖学に基づきすぎてやしないか。 「師匠」は続ける。「右側が重いから、大きく円をProleのりこしたかお/作家・ヤサぐれ舞踊評論家。『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』『ダンス・バイブル』など日本で最も多くコンテンポラリー・ダンスの本を出版している。うまい酒と良いダンスのため世界を巡る。http://www.nori54.com乗越たかお

元のページ  ../index.html#170

このブックを見る