eぶらあぼ 2017.1月号
28/179

25葛藤に苦しむ王、そして、旅の途上の遥かなるものへの憧れを歌う取材・文:山崎太郎 写真:藤本史昭 ウィーン国立歌劇場日本公演の《ナクソス島のアリアドネ》で若々しく知的な音楽教師を歌い演じたマルクス・アイヒェ。2017年春に再び来日し、同じヤノフスキの指揮で今度はワーグナー《神々の黄昏》を歌うことになる。 「ヤノフスキさんは素晴らしい指揮者ですね。リハーサルでは細部まで厳密さを追求し、練り上げていきます。細かいリズムやフレーズの強弱に関して、さまざまなヒントをいただき、それによって音楽の造型が明確に浮き出た部分がたくさんあったと思います。彼との共演は2016年夏のバイロイトが初めてでした。それが《アリアドネ》に続いて、今度の春もまた一緒。縁を感じますね」 東京・春・音楽祭2017では演目もバイロイトと同じ《神々の黄昏》で持ち役のグンターを歌う。 「一般にグンターは弱い性格の犠牲者と見られることが多いようですが、私自身は、グンターは実は本来、剛毅な王様タイプだと思っています。友人を犠牲にしてまで、権力を維持し、王国を守らなければいけないという状況に追い込まれて、激しい葛藤に苦しみ、悲劇的な最期を遂げるわけです。ジークフリートが殺される場面で、合唱が『何をする?』と現在形で叫ぶのに続いて、グンターが『ハーゲン、何をしたのだ?』と過去形で問い詰めますよね。状況が把握できていない群集は目の前のジークフリート殺害だけを問題にするのに対して、グンターはこの瞬間、過去から今にいたるまでハーゲンが巧妙に仕組んだ陰謀の全体を把握し、自分の犯した取り返しのつかぬ過ちを悟る。そこに渦巻く感情があの台詞に凝縮されるのです。オーケストラがダッダッというように寸断された和音を二度鳴らしますが、ワーグナーは感情も状況も凍りついた瞬間を見事に音にしています」 グンター役はこれまで、三つのプロダクションで歌い、それぞれ全く異なる役作りが求められたという。 「ミュンヘンのクリーゲンブルク演出ではグンターは享楽に浮かれる中身は空っぽの人物という描き方でした。グートルーネとの近親相姦的な要素も暗示され、ドラッグ依存性で、だからこそハーゲンにつけ入られるという解釈です。一方、バイロイトのカストルフ演出では、グンターはケバブの屋台の店主でした(笑)。これだと登場人物同士の本来の関係が見えてこないので、難しかったですね。周囲の人が自分を王と認めて仕えるという演技をしてくれないかぎり、王様を一人で演じることは不可能なんです。その点、一番自分の解釈に近く、葛藤に苦しむ王者を演じられたのはウィーン国立の《アリアドネ》と同じ、ベヒトルフ演出でした」 東京春祭では歌曲も披露する。 「歌曲リサイタルは、それ自体で完結した小さなオペラのようなものです。個々の歌曲にちりばめられた様々な感情がプログラム全体の中で掛け合わされ、一体となって大きな弧を描くわけです」 その意図する感情の全体像は、旅やさすらい、遥かなものへの憧れ、郷愁を連想させる曲目が並ぶ今回のプログラムからも読み取れそうだ。 「私自身の仕事も、家から離れることが多く、いつも旅の途上という感じで、だからこそ帰りたい、話し相手が欲しいという強い憧れを抱いています。シューベルトの歌曲で歌われる“月”は、孤独な旅人のかたわらに寄り添ってくれる話し相手のような大事な存在です。シューマンの〈リーダークライス〉にも、やはり家や故郷から離れた旅人の心境が多く歌われてますよね。一方、ベートーヴェンの〈はるかな恋人に〉ですが、こちらは物理的・空間的な意味で“遠くにいる愛する人へ”と限定する必要はないと思います。もっと抽象的で理想的な願い、現実と違うものへの憧れや将来への夢と考えてもいいかも知れません。聴く人それぞれの個人的な捉え方でいいのですが、私自身の経験から言えるのは、憧れを抱き、憧れに向き合っているときしか、多幸感は生まれないということです。このプログラム全体から、お客様にそうしたことを感じとっていただければ嬉しいですね」Proleシュトゥットガルトやカールスルーエの音楽大学で学ぶ。バルセロナのフランシスコ・ヴィーニャス国際歌唱コンクール第1位。2011年からウィーン国立歌劇場、バイエルン国立歌劇場と専属契約を結び、《フィガロの結婚》アルマヴィーヴァ伯爵、《ヘンゼルとグレーテル》ペーター、《エフゲニー・オネーギン》オネーギン、《ラインの黄金》ドンナー、《神々の黄昏》グンター等を歌う。ミラノ・スカラ座、ベルリン・ドイツ・オペラ、バイロイト音楽祭等に出演。レパートリーは多様なスタイル・時代の作品に及ぶ。チューリッヒ芸術大学で教鞭も執っている。

元のページ 

page 28

※このページを正しく表示するにはFlashPlayer10.2以上が必要です