eぶらあぼ 2015.12月号
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278私は愛することをして、愛することをしている場所を愛し、人を愛したシルヴィ・ギエムの軌跡取材・文:守山実花 写真:大塚絢子 「私は来る2015年の終わりに踊ることを止めます」 その年齢にあったレパートリーを選び踊り続けるダンサーも多いというのに、シルヴィ・ギエムが踊ることをやめてしまうなんて! 「人生には始まりと終わりがある…。最後の時は自分で決断したかった。怪我や意欲、気持ちの低下、そういう外部からの理由でやめるのではなく、やりたいことができる間にきっぱりとやめたいと思っていたのです」 彼女はいつも自分の意志を貫いてきた。 「伝統だから、決まりだからこうしなさい、と言われるのは納得できない」 「過去の動きや方法は気にしない」 バレエは規範の芸術であり、長い歴史の中で形成されてきた伝統を重んじてきた。しかしギエムにとって大事なのは自分が納得できるかどうかだ。オペラ座バレエ学校時代のギエムは、バレエの厳格な規則になじめず、しきたりに閉じ込めれられていると感じていたという。周囲から孤立した。それでも彼女は自分を変えなかった。 変わったのはバレエの美学だ。長く彼女のアイコンとなる「6時のポーズ」、脚を180度開脚したあのポーズ。人々を驚嘆させる一方で、「品がない」「美しくない」と批判にさらされたが、結果的にはバレエそのものが変容した。舞台を観れば一目瞭然だ。 重要なことは、脚が高く上がる、可動域が大きいということではない。単に脚があがるだけなら、それはアクロバットでしかない。しかし彼女はその誰よりも高く上がる脚、強靭な意志をもって空間に弧を描く足、鋭く床に突き立てられた足で、バレエ作品に新たな文脈を与え、現代を生きる我々の物語として提示したのだ。古典バレエのヒロインたちはギエムによってロマン主義的幻想から解放され、自らの意志で恋をし、人生を選ぼうとする女性へと変換された。古典バレエだけではない。物語バレエのヒロインも同様だ。時代に流され、落ちていく愚かしい美少女マノンが、自分の欲するものを理解し、最後の瞬間まで自分自身であり続ける女性として描き出されたように。 かつてロマンティックな幻視を生み出す装置だったポワントは、過剰性、歪み、痛み、不安、狂気…、といった日常からの逸脱でもあることに私たちは気づかされた。フォーサイスの『イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド』、ベジャールの『シシィ』などの作品は、過剰に開くギエムの身体があってこそ、成立した作品だといえる。 彼女の舞台を観ているさなか、自分の身体が鈍い音を立てて軋んだり、痛んだり、ついにはバラバラに解体されてしまうかのような感覚に陥ったことはないだろうか。ギエムは、夢に誘い込むのではなく、観る者の身体意識までもを覚醒させる。 彼女自身は自分の身体をどう感じてきたのだろう。 「私は自分の身体に毎日感謝しています。身体を通じて、多くの喜びを得られたからです。身体は複雑です。その声に耳を傾けることで、舞台では調和のとれた中で身体を使うことができるのです。若いころには、年齢を重ねると肉体的な痛みが増すのだろうと思っていましたが、あるとき気が付いたのです。年齢ではない、どれだけレッスンするかによるのだと」 だがこうも語る。 「ダンサーは皆、明日はダンサーをやめようと毎日思っているのです。訓練は辛く、楽しいことばかりではありません」 では、それでもなお彼女を突き動かしてきたものとは何か。 「振付家や観客との強い関係がありました。その前では、日々の訓練や痛みは小さなことに思えるのです」 ギエムと観客が共に分かち合いの時をもてるのもあとわずか。世界ツアーの最終地点は日本だ。 東京バレエ団とのファイナル公演全国ツアーに続き、大晦日には『東急ジルベスターコンサート2015-2016』に出演。カウントダウンの『ボレロ』をもって、彼女はダンサーとしての人生に幕を下ろす。そこで私たちは何を観、感じるのか。観る者の深部には、生涯残る強烈な記憶が刻み込まれるだろう。 「私は愛することをして、愛することをしている場所を愛し、人を愛した。ただ、愛しただけで、この賞をいただけたのだと思います」(2015年10月20日 世界文化賞受賞者合同記者会見より)Special

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