eぶらあぼ 2015.8月号
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221特別寄稿追悼室むろぶし伏 鴻こう1947-2015 あまりにも突然の訃報だった。岩渕貞太や中村蓉といった若手ダンサーを引き連れてのブラジル公演が成功裏に終わったと、SNSを通して報じられたばかりだったのである。そこには笑顔の室伏の写真も多数載せられていたのに。 次の目的地であるベルリンへ移動するため、6月18日にマネージャーと二人でメキシコシティの空港で乗り継ぎの最中、倒れた。心筋梗塞だったという。ヘリで病院に搬送されたが、そのまま帰らぬ人となった。 海外での室伏の評価は絶大である。ひとつはみずからの舞踏によって。そしてもうひとつは、その人間的な魅力によってだ。 1969年に舞踏の創立者である土方巽(ひじかた・たつみ)に師事。72年には麿赤兒(まろ・あかじ)の大駱駝艦(だいらくだかん)の創立に参加し、76年には自らの舞踏派『背火』を立ち上げた。 舞踏が「BUTOH」として本格的に世界でブレイクしたのは80年にパリのフェスで大野一雄や山海塾が注目を集めてからだが、室伏はこれに先立つ78年に『最期の楽園』の1ヵ月公演をパリで成功させていた。まさに嚆矢だったのである。 『クイック・シルバー』等で室伏の代名詞となった銀塗りは、同作初演のベネチア・ビエンナーレ(2006年)でも衝撃的に受け止められた。年齢を超越した肉体にサイボーグのような光沢をもたらす銀粉。身体の内部にいくつもの暴風が渦巻くような緊張を包みつつ、その身体は極めて静謐なのだ。そしてその身体が何度も床に打ち付けられる。時に発せられる咆吼は時空を裂くような鋭さだった。 室伏は、孤高ではあったが孤独ではなかった。 03年からは「Ko & Edge Co.」というユニットを立ち上げ、若い男性ダンサーと協働する作品を作った。ここからは鈴木ユキオや岩渕貞太、目黒大路、林貞之といった多くの才能あるダンサーが巣立っている。 むしろ海外での活動が多く、公演のみならずワークショップでは世界中の若いダンサーに薫陶を与えてきた。横浜ダンスコレクションでも審査員を務め、厳しい意見と、大きな愛情に溢れる言葉をダンサーに語りかけていた姿を覚えている人も多いだろう。大変な読書家で、かつては舞踏新聞「激しい季節」を編集刊行(1974年)したこともあるほど。その見識は広く深かった。 現役の舞踏手のままフッと逝ってしまうとは、室伏らしい美学といえるかもしれない。だが向こう数年間、数々のプロジェクトが進行中だった。世界中の多くの人が彼との出会いを楽しみに待っていたのである。 駆け抜けた人だった。わずか68歳での死は、あまりにも早すぎる。しかし人々の胸に刻まれたその姿は、決して褪せることはないだろう。文:乗越たかお『Faux pas』(オデオン座 2013) Photo:Laurent Ziegler2014年11月リガにて Photo:kimiko watanabe221

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