eぶらあぼ 2015.6月号
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特別寄稿 戦後間もない時期からバレエ・ダンサーとして、後には指導者として長きにわたりバレエ界を牽引してきた谷桃子氏が、去る4月26日夜、静かに旅立った。94歳だった。バレエ団設立へ 谷桃子は、1921年1月兵庫に生まれ、8歳で日本モダンダンス界の草分け石井漠に入門。その後日劇ダンシングチームでダンサーとして活動していたが、46年退団。小牧正英のもとでクラシックバレエの研鑽を積んだ。46年の『白鳥の湖』日本初演を客席で観たのがきっかけだった。その後、小牧バレエ団に入団。上品で愛くるしい容姿、情感あふれる表現力で人々を魅了、バレエブームを巻き起こした。49年には谷桃子バレエ団を設立。1年間のパリ留学を経て、『白鳥の湖』、『ジゼル』を次々と上演し、成功をおさめた。とりわけジゼルは生涯の当たり役となった。 残念ながら私は谷桃子の舞台を観ることは叶わなかった。しかし、谷桃子バレエ団の公演を観ることで、彼女のバレエがどのようなものだったかを理解することができたと思う。すなわち、おっとりと品がよく、軽やかでありながら、秘めた熱情が全身からにじみだしてくるようなダンスだ。厳しくも慈愛に満ちた人 取材として稽古場を見せていただく機会にも恵まれた。愛用の椅子に腰を下ろし、厳しく、慈愛ある視線でダンサーたちの一挙手一投足を見守る谷桃子の姿がそこにあった。インタビューが叶ったのは2009年。「Danza」誌上で、バレエ団60周年記念公演の特集記事を執筆したおりだ。おっとりとした口調ながら、話の内容は実に明確で、強い意思の存在を感じさせるものだった。 幸せなことに、その後何度か言葉を交わす機会をいただいた。あるとき思い切って、父の話をしたことがある。私事で恐縮だが、クラシック音楽を何よりも愛する父は、戦前戦後を通じてのバレエ愛好家でもあった。彼は、憧れの同い年のプリマを親しみをこめてずっと「桃子ちゃん」と呼んでいた。その話をすると「まぁ、どうしましょう」と目を丸くし、はにかんだ谷桃子の頬にサッと薄桃色の赤みが差した。なんと愛らしく、チャーミングだったことか! ジゼル、リゼット、スワニルダ…、彼女が命を吹き込んできたキュートなヒロインたちの姿とオーバーラップした瞬間だった。 谷桃子が心血を注いだバレエ団は、その薫陶を受けた世代がリーダーとなり、伝統を守りながら未来へと歩み続けている。その行く末を、谷桃子はあの慈愛に満ちた目で見守り続けることだろう。そして天国でも、軽やかな舞で、彼女のバレエを愛した人たちはもちろん、バレエに触れる機会のなかった人たちにも、バレエの魅力を伝えていくに違いない。 心よりご冥福をお祈り申し上げる。文:守山実花追悼 谷 桃子 1921-2015Danza第22号(2009年5月)より ©青柳聡252

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