eぶらあぼ 2015.6月号
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250 金森穣率いるNoismが、スタジオ規模の小空間で上演する「近代童話劇シリーズ」をスタートさせる。「私は、抗いようもなく現代と繋がった過去、つまり近代に惹かれます。一般的に近代と言うと戦前や明治時代でしょうが、今Noismに所属する若手メンバーにとっては、テクノロジーが凄い勢いで発達した戦後の高度経済成長やバブル期も、そこに含まれるようです。今回のシリーズでは、そうしたテクノロジーを媒介とする人間の環境の変化を、誰もが親しめる“童話”というフォームで表現したいと考えました」 シリーズ第1弾はバルトーク作曲のバレエ『かかし王子』をもとにした新作『箱入り娘』。原作では、王子が王女の気を引くために自分の姿を模したかかしを作ったところ、王女はかかしに魅了され、王子に目もくれない…という皮肉な展開を迎えるが、今回は王子を“ニート”、王女を“箱入り娘”と設定。箱入り娘役をNoism最古参の井関佐和子、ニート役を今シーズン入団したばかりの佐藤琢哉が踊る。  金森は、2011年のサイトウ・キネン・フェスティバル松本でバルトークのオペラ《青ひげ公の城》とバレエ『中国の不思議な役人』を演出・振付した時、バルトークの音楽を色々と調べるうちに『かかし王子』という作品に出合ったという。「最初に感じたのは、かかしはまるで当時話題になった“ネット彼氏”だということ。そこから、視覚情報に頼らざるを得ない人間の性(さが)や、SNSによって誰もが自己表現するかっこつきのゲイジツカになった現状について、思考していきました。 箱入り娘の“箱”とは、社会の位相。箱自体は昔からあり、劇場もその一つですけれども、SNS時代の現代は、無数の箱が等価で存在している印象があります。原作では湖やケヤキが王女を守り、やがて彼女に背を向けるのですが、私は湖を母、ケヤキを父とし、家族という箱の崩壊のイメージを重ねました。 さらに舞台全体を“カメラ兎”が映像に記録していて、そこでも虚実が錯綜します。テクノロジー自体を否定するわけではありませんが、多くの人が無自覚にその流れに乗っている状況下、別の角度から問題意識を示すことこそ、芸術の真価ではないでしょうか」 前々作『ASU〜不可視への献身』からもわかるように、西洋発祥のバレエを礎としながら、アジアならではの身体表現を探求している金森。その試みの成果は『箱入り娘』にも反映されるはずだと言う。こうした姿勢は、クラシック音楽の中に自身のルーツとしての民族音楽を取り入れたバルトークに、通じるかもしれない。「ハンガリー人のバルトークには2つの文化への意識が常にあっただろうし、前作『supernova』で用いた黛敏郎さんの音楽もそう。コンテンポラリー・ダンスでは過去を振り返るとか何かを残すといった感覚が希薄になりがちですが、我々は、どの歴史・文化・文脈で踊り、この国でどう継承していきたいのか、考えなくてはならないと思うのです。 バルトークの音楽は、民謡のようなメロディックな要素と、変拍子が多発する複雑な作曲法とが、一緒になっている点に、引きつけられますね。近代の作曲家であるところも良い。私自身、カッティングエッジなだけでなく、アナログだったりロマンティックだったりするものに感じ入るし、そういう地点から今を描くのが好きなのです」 今作では、笑いに真正面から向き合っているというのも興味深い。新境地が期待できそうだ。「童話劇だけにメルヘンな雰囲気だし、ある意味くだらなくて、コントのようだと感じる人もいるかもしれません。笑い自体を追究しているわけではないですが、リハーサルを見てこんなに笑うのは初めて。Noism創設当初から身体の強度を突き詰めてきた結果、その裏側の弛緩・脱力した状態も意識し、さらに高い強度を目指したくなったんです。振り子の振り幅が大きくなっているのでしょうね。と同時に、童話って意外とブラックだったり残酷だったりするものなので、『綺麗だった』『面白かった』で終わってしまったらこちらの力不足。楽しんでもらいながら、社会について考えるきっかけになればと願っています」金森 穣Jo Kanamori/Noism芸術監督・演出振付家・舞踊家キーワードは“虚実と錯綜”と“笑い”?取材・文:高橋彩子 写真:藤本史昭

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