eぶらあぼ 2025.10月号
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沼尻竜典 ©RYOICHI ARATANI京都市交響楽団満を持して臨む、作曲家の極致たるシンフォニー文:中村孝義 現在は神奈川フィルハーモニー管弦楽団やトウキョウ・ミタカ・フィルハーモニアの音楽監督、びわ湖ホールの桂冠芸術監督を務める沼尻竜典が、同ホールの芸術監督時代に京都市交響楽団と始めたマーラーの交響曲シリーズが、実に6回目を迎えることになった。マーラーの交響曲は、どれもが一瞬も気を抜くことができない巨大な編成と長さを持つ大曲ばかりだが、これまで彼が取り上げてきた6曲(第1番、第4番、第6番、第7番、第10番アダージョ楽章、「大地の歌」)を聴いた限りでは、巨大で長大かつ至難になるほど沼尻の気力や集中力は一層増し、全体的なバランス感や見通しを一切崩すことなく、圧倒的な高揚をもって終局を迎えることが常であった。これこそびわ湖ホールで10曲のワーグナーのオペラ(W10)上演を完遂したことで培われた力量の賜物であろう。今やあの複雑怪奇で、簡単にスコアを読み切ることさえ容易ではないマーラーの交響曲の、我が国最高のスペシャリストの一人として、その演奏は決して見過ごすことのできないものとなった。 その沼尻が、第6回に取り上げようとしているのは、マーラーの辞世の意味を持つ音楽にして最高傑作との呼び声も高い第9番。この曲は交響曲の常道を完全に逆手にとって、第1楽章と第4楽章がゆっくりしたテンポをとり、大胆な書法や崇高な表現で際立つ作品だが、特にその終楽章は、まるでこの世との別れを暗示するかのごとく、最後に息絶えて最弱音で消え入るように終わるという特別な在り方を示す。まさにマーラーの全交響曲の中でも、他とは隔絶した孤高の姿をあらわす作品である。筆者はかつて、1970年の大阪万博に来演したバーンスタインとニューヨーク・フィルが演奏したこの曲を聴いたとき、静かに終わるのにも拘らず、そこに込められた余りにも深い世界に、耐えられないほどの重みと、逆に大きな安らぎを感じたことをはっきり思い出す。圧倒的な高揚と叫びで終わるより、この方がよほど大きなものを心に刻み込むと痛感した。しかしそれ以来何度も聴いてきた第9番の演奏が、全てそうした深遠な意味を開示してくれたわけではない。この曲を取り上げるには心身ともに非常な充実を要するが、今や円熟期に差し掛かった沼尻ならなぜかこれができそうな予感がしてならない。今敢えて第9番を演奏しようと考えたからには、沼尻にもそれ相応の思いや目論見があるに違いない。いやこの曲は浅はかな目論見などではとても相対することができるものではない。沼尻には、今これをどうしても演奏したい、演奏せねばならないという強い使命感があるのだろう。そうした思いが、余人の及ばぬ世界を明らかにする可能性があることは想像に難くない。マーラーや沼尻、さらには京都市交響楽団に思いを持つ人は、この機会を決して逃してはならない。聴かねば一生の後悔になるだけだ。ぜひ一人でも多くの方がこの稀有の機会に立ち会っていただけたらと思う。11/23(日・祝)14:00 びわ湖ホール 大ホールび わ 湖ホ ー ルPr ev i e wびわ湖ホール マーラー・シリーズ沼尻竜典 × 京都市交響楽団 交響曲第9番びわ湖ホールチケットセンター077-523-7136 https://www.biwako-hall.or.jp/滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールは、関西随一のオペラ劇場として、一流のオペラやバレエに加えコンサートも開催。また、国内外の実力派アーティストが充実したアンサンブルやソロを披露するほか、講座なども開催しています。このコーナーでは、びわ湖ホールが主催する注目の公演をご紹介します。

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