119音楽批評とは何か?そしてその必要性とは?連載 No.111城所孝吉姿と、我々にとっての意味。文体は、論文調ないし論証調を努めて避け、対象を不用意に捕まえようとせず、いわば「変化球で」核心に迫る。まさに文芸的、批評的であり、本当に「評論家」にしか書けない文章である。 筆者も音楽について書く人間の端くれなので、こうした文章を読むと非常に刺激を受ける。おふたりにはおそらく、音楽には―吉田秀和の没後―本当の意味での評論・批評がなくなった、という認識があるのだろう。それゆえ、そのあり方が再び提示されるべきだし、それを自分たちでしたい、という想いがある。音楽における「批評」が確立されるべきだ、というのは本当にそうで、筆者もまったく同じ思い。他ジャンルとの対話によってそれを行うかは別として、単なるジャッジを超えた(しかも音楽学とは異なる)「音楽についての思索」が必要だと確信する。 『気分はカプリッチョ』は、彼らの文章のように批評的ではないし、文芸評論的でもない。しかし筆者は、そうした戦略的な意図も持っていて、文章にも組み込んでいるつもりだ。おふたりが「批評の試み」を行っていることに強く共感するし、その機運がさらに高まってほしいと願っている。なぜなら音楽は聴くだけではだめで、それについて「語ら」なければ、決して深まらないからである。『ぶらあぼ』の読者の方々にも、彼らの文章をぜひとも読んでほしい。 先日東京に戻った際に、舩木篤也さんの『三月一一日のシューベルト』と沼野雄司さんの『トーキョー・シンコペーション』を手に入れた。ともに以前某誌で連載されていたもので、待望の単行本化だが、2冊は実は同じテーマ、つまり「音楽批評を打ち立てること」を扱っている。後者には、おふたりの対談が収められているが、そこでまさにこの問いが議論されている。 曰く、世間一般が音楽評論と考えるものは、コンサート評、CD評等の「音楽についてのジャッジ=価値判断」である。その際、音楽評論家自体は評判が悪く、音楽家について上から目線で文句をつける胡散臭い人、というイメージがある。実際に書いているものも、「批評」の名に値するとは限らず、演奏会評では関連情報をまとめ、最後に2、3文の評価を記す程度。与えられる文字数が少ないので仕方がないが、CD解説や楽曲紹介、チラシ文等も書くので、節操がない印象を与える。いずれにしても評論家は、作品や演奏の良し悪しを判断する立場である。 問題は、それだけでいいのか、ということだ。舩木さんと沼野さんによれば、「ネットで情報が豊富になり、伝達も早くなった現在、評論家が知識や経験で優位性を主張できなくなった状況がある」。その上で「音楽について、少し違ったアイディアと視点を持って文章を書くこと」が、評論家の特性であり、存在意義であるという。つまり音楽批評とは、「文の芸、いや初めから文芸以外の何ものでもない」。 音楽批評はそれを目指すべきなのだが、これはたいへん納得のゆく状況把握であり、意見だと思う。その際、彼らが考える批評の具体的なあり方は、本文を読めばすぐにわかる。音楽を文学、哲学、映画、アートといった他ジャンルと交錯させながら、そこからの跳ね返りによって、本来の(音楽的)テーマを照らし出す、というメソッドである。浮かび上がるのは、様々な文化的営みのなかにある音楽のProfile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。
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