eぶらあぼ 2025.9月号
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23フランス音楽での繊細な色彩表現は、東京交響楽団の素晴らしい強みです取材・文:青澤隆明 第二次世界大戦終結から80年目の夏。ジョナサン・ノットと東京交響楽団が「戦争レクイエム」で新たな名演を聴かせた。音楽監督として12年目、これが惜しむべきラスト・シーズンとなるが、彼らの音楽冒険はますます高みと広がりをみせている。 憐れみと理解に満ちたブリテンでのラテン語典礼文と英詩に続き、9月にはバッハの「マタイ受難曲」でドイツ語テクストを扱う。そして、11月にはラヴェルの《子どもと魔法》でフランス語を歌い、モーツァルトやR.シュトラウスで卓抜な成果を挙げてきたオペラ演奏会形式シリーズの掉尾を飾る。 「シーズン全体が“Song”というアイディアに結びついています。そして、私たち誰もが歌をうたうように、それはとても包容力のある全方位的なテーマなのです」とノットは語り出した。 「歌にはふたつの志向性があって、いっぽうでは宗教的な歌の本質にいたります。また、歌にはさらに楽しむための要素があり、私たちはリゲティの『マカーブルの秘密』も演奏します。ラヴェルの《子どもと魔法》も歌のもつ包容力を示すのに絶好の作品で、まさに聴き逃せないオペラ体験となるはずです。この物語には愛の要素が色濃く、また繊細な感受性が基調にありますから、日本の聴衆にはとくに訴えかけるところが大きいと私は思います。すべてのキャストに日本人の声楽家を迎え、二期会合唱団、にいがた東響コーラスと共演することも重要で、しめくくりのシーズンに相応しいセレブレーションの意義をもっています」 今年はラヴェルの生誕150年。そして、《子どもと魔法》はいまから100年前、1925年に初演された。コレットがもともと童話バレエとして構想した台本に作曲したオペラで、仏原題は「子どもと魔法にかけられたもの」という意味合い。わがままな少年が、他者の痛みに気づき、やさしさへ向けてふみ出す。ラヴェルの温かなまなざしや生命への慈しみが優美に結ばれた、詩的で愛すべきファンタジーだ。 「愛について言うならまず、子どもは女声が担いますが、あまり多くを語らないこの子が初恋を覚えるのは、本に描かれたおとぎ話のお姫様なのです。それから、つがいの動物たちが自然の愛の証しとして登場しますね。そして、家具や物たちは壊されて傷つけられたのに、彼がリスの傷を手当てするのをみるや、とても素早く心変わりして、この子は大丈夫だと決める。つまり物語はふたつの層をもっていて、表面的には一種のエンターテインメントであり、深い次元では赦しや愛について、また母と子の関係について語りかけます」 登場するものたちも多彩なら、その音楽にもきわめて多元的なスタイルやイディオムが、ラヴェル一流の洗練味をもって精緻に息づいている。ジャズの影響もいち早くみられるし、アニメーションのように次々と新たなシーンが紡がれていく。 「多彩な音楽様式が採り入れられ、実に驚くべき響きをもった作品です。ただし、すべては非常に速く動いていきます。さまざまな動物やものが矢継ぎ早に登場し、多様な色彩を放っていく。色彩の精妙さは、ラヴェルは近代のモーツァルトではないか、と思えるほどに素晴らしい。書法は非常に聡明で、たとえば一種のワルツを採るときも、ラヴェルはきわめて洗練され、それでいて訴えかける力の強いハーモニーを用いています。この音楽には、あらゆる種類の美しいものたちが、万華鏡のようにちりばめられているのです」 ノットが東響から抽き出すフランス音楽の響きには、特別に繊細で精妙な美がある。思えば2011年10月、最初の共演もラヴェル、「ダフニスとクロエ」全曲だった。ドビュッシーの「シレーヌ」と、シェーンベルクのピアノ協奏曲が組まれていたのも象徴的だ。 「フランス音楽での繊細な色彩表現は、東響の素晴らしい強みとなり、室内楽的な感覚を大きく導き出すことにもなりました。私はこの機に最初のコンサートとの円環を完結したいと思い、ラヴェルのもうひとつの大作《子どもと魔法》を構想しました。本曲の色彩表現は魔法のようで、真の傑作と言えます。それに先立ち、私たちのそもそもの幕開けとなった『シレーヌ』に立ち返り、新たにデュリュフレの『3つの舞曲』という興味深い作品も採り上げます。きっと得がたい音楽の旅となることでしょう」

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