eぶらあぼ 2025.8月号
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109果たして《こうもり》は娯楽音楽か?連載 No.109城所孝吉 先日、ある名バリトンのインタビューを読んでいて、気になることがあった。彼は《こうもり》のアイゼンシュタインを持ち役としているが、オペレッタは嫌いなのだという。曰く、「人間の本質を描くのがクラシックであって、真実から目をそらすのが娯楽音楽」であり、“変えることのできない現実は忘れた方が幸せ”と歌う《こうもり》は、「現実を見つめて掘り下げるタイプの自分には合わない」のだそうだ。 《こうもり》ファンとしては、何か納得がいかない意見である。というのは筆者は、このオペレッタがそれほど軽薄な娯楽音楽だとは思わないからだ。むしろ逆で、華やかで喜悦に満ちた表面の下に、皮肉とウィーン社会の真実が顔をのぞかせているように感じられる。 当作品が作曲されていた1873年の5月、オーストリアでは「黒い金曜日」と呼ばれる株の暴落事件が発生した。オーストリア・ハンガリー帝国成立(1867年)後のウィーンでは、大規模な都市計画(リング通りの建設、周辺地域の開発、鉄道の整備等)が行われ、グリュンダーツァイトという劇的な景気の向上が起こった。今でいうバブル経済だが、資本の脆弱な会社も乱立したために価値に実体がなく、「泡」は数年後に見事にはじけたのだった。 1870年代初頭のウィーン市民は、バブルの機運にあおられて誰もが投資したが、この「黒い金曜日」で経済的損失を被った人々も非常に多かった。そこで非難の対象となったのは、無責任な経済活動を行った資産家や上流階級である。翌74年4月の《こうもり》の初演は失敗だったが、多くの音楽学者は、これが当時の社会情勢と関係していると言う。《こうもり》では、金持ちの銀行家アイゼンシュタインが、本当は牢獄に入るべきなのに、贅沢なパーティーに出て乱痴気騒ぎをする。人々にはそれが、まさに「黒い金曜日」を引き起こした社会層の写し絵だと感じられたのである。 これは納得の行く解釈だ。我々には単に面白おかしいパーティーの場面も、当時の聴衆には、庶民の気持ちも知らずに贅沢三昧をする、いけ好かない人々のデカダンな生活と映った。作品自体にも、怪しげな風情がある。間男を家に呼び寄せる妻と、彼女に内緒で舞踏会に出かける夫。彼はそこで、女優を自称する小間使いに色目を使うほか、変装した妻本人に言い寄る。最後には浮気がばれて、「シャンパンの泡がはじける」が、そうした勝手で気ままな振る舞いは、ウィーン上流社会の実像だったのだ。そう考えるとヨハン・シュトラウスⅡ世は、オッフェンバックと同じくらい風刺的な作品を書いたことになる。 上記のバリトン歌手が引用した“変えることのできない現実は忘れた方が幸せ”という(この作品で最も有名な、第1幕フィナーレでアルフレードが歌う)歌詞は、当時の世情を映し出していたのであり、皮肉であることがわかる。オペレッタは、決してバカにしてはならないのである。Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。

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