連載 No.107城所孝吉103や《蝶々夫人》を愛好することは、今日の価値観から外れ、政治的に正しくないと感じている人がいる(ヒロインたちが、あまりに男性目線で描かれているため)。ドキュメンタリーでは、そうした人々が作品を安心して観られるように(?)、「プッチーニは女性の味方で、フェミニストだった」とこじつけているわけである。しかし、そうした番組が作られること自体、ミミや蝶々さんが妄想の産物であることを証明している。 ちなみにティーレマンは、シュトラウスが「自立した女性」を描くようになった理由を自問している。ひとつは、彼が新時代の機運を読む感性を持っていたことだが、同時にプライベート面が関係していたのでは?とも仄めかしている。その考え方は、一理あるだろう。シュトラウスの妻パウリーネは、バイロイト音楽祭に出演するほどのソプラノだったが、破天荒な振る舞いで知られ、彼はかなり手を焼いていた。しかしまさにそれゆえに、気の強い妻を、現実の女性・パートナーとして、しっかりと受け止めていたと言えるかもしれない。両者は、まぎれもなく「破れ鍋に綴じ蓋」的名・迷夫婦だったが、これはプッチーニが、糟糠の妻とは同居離婚同然で、そこらじゅうに愛人(=現実を忘れて夢を見られる存在)を作っていたのとは対照的である。パウリーネは、シュトラウスが1949年に85歳で死去した約半年後、後を追うようにして亡くなっている。 最近、クリスティアン・ティーレマンのリヒャルト・シュトラウスに関する本を読んだのだが、そこで目を引く言葉があった。曰く、彼のオペラに登場するのは「自立した女性」だというのである。「ワーグナーのオペラの女性たちは、男性があってこその存在だ。ゼンタも、エリーザベトも、エルザも、ブリュンヒルデも、クンドリも、英雄を救済するのが本質的な役割である。これに対してシュトラウスの女性は、それ自体として存在する。サロメはヨカナーンの首を欲し、エレクトラは父親の復讐に燃え、皇后は人間の影を手に入れようとするが、ドラマの主体となるのは、他ならぬ彼女たちなのだ」。 これは慧眼だと思う。ワーグナーにおいて女性は理想化されるが、それは男性、つまり作曲家が彼女たちをそう捉えているからだ。《フィデリオ》も同様で、ベートーヴェンはレオノーレを良妻の鑑に仕立て上げた。「永遠に女性的なるものが我々を天に引き上げる」と言ったのはゲーテ(『ファウスト』)だが、ロマン主義においては、女性は男性がファンタジーを投影する対象だったのである。これに対し、シュトラウスのヒロインたち―とりわけ《ばらの騎士》以降―は、我々により近い、現実的な女性と呼べる。元帥夫人やアラベラは、実在の人物のようなリアリティを持つだけではない。ティーレマンが言うように、彼女たちの「役割」を規定する主体としての男性を必要としないのだ。 理想化、という点で共通するのは、プッチーニの女性たちである。以前この連載でも扱った通り、彼のオペラの主人公たちは、作曲家自身のファンタジー、つまり「自分好みの女」の具象化だった。例えば、先日ARTE(独仏共同の公共文化テレビ)で放送されたドキュメンタリー『プッチーニ~女性的なるものへの情熱』では、「プッチーニは女性の善き理解者であった」という主張を、執拗に繰り返していた。欧州のオペラファンのなかには、《ボエーム》Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。R.シュトラウスのオペラのヒロインは「自立した女性」?
元のページ ../index.html#106