eぶらあぼ 2025.4月号
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119かれていることである。兄は続ける。「これこそはフランツが、ベートーヴェンの隣に埋められたいと願っている証拠ではないでしょうか。彼はベートーヴェンをあんなに尊敬していたのですから」。フェルディナントは、埋葬費用(70フローリンという大金)の一部を父に負担してほしいと嘆願するが、彼がベートーヴェンの隣に埋められたことには、こうした経緯があったのである。父子の確執については記録が残っておらず、我々は真の背景を知ることはできない。しかし父(2年後の1830年に没する)は、兄の願いに応じて数日中に計115フローリン送っている。 そして筆者は、そのヴェーリング墓地跡(現在はシューベルト公園と呼ばれるが、両楽聖の墓は残されている)に足を運んだ。そこは、まぎれもなく感動的な場所であった。巨人ベートーヴェンと、彼を常に見上げていたシューベルトは、ふたり分の墓の跡地を挟んで、本当に並んで眠っていた。もちろん遺骸自体は、1888年に中央墓地に移葬されており、中身は空である。しかしその光景は、人知れず貧しく死んだシューベルトが、やがてベートーヴェンと同列の評価を得るようになることを、静かに、象徴的に物語っていた。彼は、作曲家としての人生を生き抜き、全うしたのである。筆者は携帯を取り出して、シューベルトが最後に書いた作品である〈鳩の使い〉(「白鳥の歌」の終曲)を流してみた。その希望を失わない、喜びと憧れに満ちた響きに耳を傾けていると、思わず胸が熱くなった。 年末に15年ぶりにウィーンに行き、シューベルト関連の史跡を観て回った。生家、最後の家、ヴェーリング墓地跡の3個所である。 まず生家だが、彼の父はここで、教師として学校を経営していた。1階が学校、そして2階にあるアパートのひとつがシューベルト家である。入口を入ってすぐの場所が台所(かまど)だが、彼はここで生まれたという。それ以外は、14畳ほどのひと間があるだけで、居間・食堂・寝室のすべてが兼用である。両親と子ども4人がここで一緒に暮らしていたとは、到底思えない。 シューベルトは、コンヴィクト(帝立の寄宿神学校)を退学した後、父の希望に従って実家で教師として働いていた。父との関係は複雑で、彼は息子が自分の望み通りにしないと、つらくあたったらしい。やがてシューベルトは、おそらく大喧嘩の後、親元から逃げだしたが、本当は父から愛されることを強く望んでいた。その想いは、1822年に書かれた散文詩『私の夢』(フロイトを先取りするような深層心理的な内容)に表れている。愛と孤独が表裏一体となったこの経験は、シューベルトの精神世界=音楽に多大な影響を与えたが、その端緒がこの家にあったかと思うと、感慨深かった。 一方最後の家は、兄フェルディナントが住んでいたアパートである。シューベルトは1828年夏、梅毒により体調を崩し、11月19日に死ぬまでここに身を寄せていた。奥に彼が寝ていた部屋があるが、死の前日、シューベルトは妄想に陥り、兄に次のように言ったという。「お願いだから、僕をもとの部屋に運んでくれないだろうか。こうして地面の下の片隅に、放っておかないでほしい。地面の上に僕の居場所はないのだろうか」。兄が「お前は自分のベッドの上にいるのだよ」と懸命になだめると、彼は言った。「いや、違う。ここにはベートーヴェンがいない…」 これは、後代の人が作り上げた伝説ではなく、フェルディナントが死の直後に父に送った手紙に書Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。連載 No.105城所孝吉ウィーンでシューベルトの足跡をたどる

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