連載 No.104城所孝吉人間ドラマを探求し続けた演出家オットー・シェンク107ジョーンズのほんの少し伏せた目、背中を向ける立ち姿には、役の心の奥底が現れていた。まだゾフィーを知らないオクタヴィアンが、「君だけが好きなんだ!」と叫べば叫ぶほど、彼女の胸には痛みが走る。しかしジョーンズは、その無邪気な身勝手さに耐えるように自分に言い聞かせ、「片目で泣いて片目で笑っていた」。そして、こうした複雑で心を打つ感情世界を演じることを可能にしたのは、まぎれもなくシェンクであった。彼は役の内面へと入り込み、歌手たちに同じことを感じさせ、表現させたのである。 シェンクは、ドイツ語圏では喜劇俳優として知られているが(演じる役は常に「自分自身」である)、とぼけたウィーン風ユーモアの背後には、常に人間ドラマを探究する視線があった。彼の親友であるルドルフ・ブッフビンダーは、訃報に接してこう記している。「人生が彼に舞台の何たるかを教えたのです。オッティの芸術の本質にあるのは、人間への限りのない愛です」。まさにその通りだと思う。少なくとも筆者が彼の《ばらの騎士》から感じるのは、「人生のエッセンス」である。 読み替え演出が一般的な今日、彼の演出はしばしばオールドファッションだとされる。しかし現代のメインストリームでは、コンセプトが人物のドラマをかき消していることが問題であるように思う。今後、作品を真正面から捉えた、シェンクが目指した演出のあり方は、復権するだろうか。 1月9日、オットー・シェンクが94歳で死去した。実は筆者は、彼の演出を劇場で観た機会はあまり多くない。バイエルン国立歌劇場の《ばらの騎士》と《こうもり》くらいだと思う。それも、すでに何十回も上演された後のレパートリー公演であり、本人の息がかかった舞台ではなかった。ほとんどが映像で観たもので、彼の全盛期をリアルタイムで体験したとは言えない。 それでもシェンクがどのような演出家であったかは、よくわかっているつもりだ。なぜなら、ビデオテープが擦り切れるほど観て、その度に感動したのが、ミュンヘンの彼の(つまりカルロス・クライバー指揮の)《ばらの騎士》だったからである(1979年収録)。もっと言うと、当時ドイツ文学科の学生だった筆者は、当映像で独語そのものを学んだ。上演の素晴らしさをもっと理解したいと思い、ホフマンスタールのテキストと睨めっこしたが、すべてを誦じられるようになった時、語学力は飛躍的に上がっていた。 《ばらの騎士》は、あらゆるオペラのなかでも、最も複雑で繊細な作品のひとつだと思う。登場人物の心理が、生身の人間のように微細に描かれているからである。美しい「年上の女性」元帥夫人は、若いオクタヴィアンを愛している。しかし彼女は、やがて彼が自分を捨て、別の女性のもとへ去ってゆくこともわかっている。それは、自分の容色が衰えたから? それとも、男たちが身勝手だから? 彼女は、その「時がもたらす人生の不思議」に悩み、逡巡するが、やがてその不動の摂理を肯定する。そして、オクタヴィアンがゾフィーと恋に落ち、彼女とオックス男爵との縁組が破談になると、「正しいやり方で彼を愛そう」と、両者の間柄を祝福するのである。 この上演における元帥夫人であるギネス・ジョーンズの演技は、「女優並み」などという次元をはるかに超えていた。第1幕の後半、元帥夫人はオクタヴィアンに、いずれ来るだろう別れについて語るが、Profile城所孝吉(きどころ たかよし)1970年生まれ。早稲田大学第一文学部独文専修卒。90年代よりドイツ・ベルリンを拠点に音楽評論家として活躍し、『音楽の友』『レコード芸術』等の雑誌・新聞で執筆する。10年間ベルリン・フィルのメディア部門に在籍した後、現在はレコード会社に勤務。
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